「桑畑のある坂道を下ると、にわかに渓谷がひらけた。前面に急傾斜の山が連なって、下に川が流れていた。山は丹沢山塊で、川は相模川の支流中津川だった。見下ろすと、川のふちに百姓家がかたまっていた。向かいの山裾にも何軒か点在している。川には吊り橋がかかっていた。上流のほうを見ると、山稜の伸びたあたりが霧にうすれている。」
松本清張の小説『相模国愛甲郡中津村』の一節である。旧愛川町、高峰村、中津村が合併していまの愛川町となったが、相模台地から町の中央を南北に縦走する中津川を俯瞰した名文には、わがふるさとの面目躍如たるものがある。
古くから川に生き、川を愛してきた人たちのまち愛川。いまその人口は43,000人、そうしてその歴程に残る、かつての山嶽信仰のメッカ八菅山(はすげさん)を、また死者4,000余人といわれる北条、武田両軍の古戦場三増(みませ)峠を見つめて、中津川の清流は、数々の史実と哀歓を語りかけてくる。
相模風土記によると、愛甲郡については和名鈔の国郡の部に「郡名を阿由加波と註す、今は阿伊加布と唄う」とあり、阿由加波は鮎河(あゆこう)のことで、愛甲の字を用い、中津川は別の名を鮎河とも呼ばれた。これから明治21年町村制公布のとき、村の名を昔から親しんできた鮎河からとることになり、あゆかわと呼んで愛川の文字に改めたという。
したがってこの町は、川なしには水なしには、その生々流転を語ることができぬほど、川との深い「えにし」を持っている。
そうしてその歴史を語るときは、水は始めて冗舌となる。水の語るものの第1は、やはり、半原(はんばら)の撚糸であろう。そこは山間峡谷のため農耕地が少なく、農を以て生業とするに難く、多くの職人を輩出した。職人のうち大工職は、古来「半原大工」といわれて、技術の優秀さは関東一円の神社仏閣の建築に喧伝され、また機械製作に長じて、八丁式撚糸機を生産し、撚糸の職人は水車の利用によって、中津川の奔流、落差という天恵の地勢と湿度を活用して、明治年代の撚糸全盛期をもたらした。全国各地から、その白い指に繁栄を託された女工たちが数多く集まり、彼女達の歌う労働歌「管巻き唄」が各戸の窓から、尽きることなく聞こえたという。
半原よいとこうしろは山よ
前は川瀬で水車
アーヨイトヤマセッセ
寒いつめたい爪先ァいたい
早く鶯鳴けばよい
糸は千たび切れるが役よ
そばでつなぐがわしの役
天恵の自然美に囲まれて静かに息づいて来た山峡と川は、関東の耶馬渓といわれる中津渓谷を生んだ。往時、川に堰堤もない水量豊かなりし頃は、源流から筏を組んで相模本流まで川下りしたものだそうだが、その筏師たちが一夜の仮の宿にしたという奇岩、石小屋のあたりは、年間100万人を数える観光客のメッカとなった。
その下流田代には、名瀑塩川(しおかわ)滝が水勢をひびかせる。八菅修験の行所として、また病気快癒祈願の人や、雨乞いの農民の参籠も多かったという。
中津川にはいろいろな顔がある。私達の幼い頃、まだまだ川は豊かな水を湛えていた。子供達は歓声を挙げながら背の届かぬ川底の石拾いに興じ、多くの大人達は鮎漁を生業とした。こうして、のどかに楽しく話をしてくれたり、豊かな恵みをもたらしてくれたりするかと思うと、時には暴れて手がつけられないようなこともあった。
幾夏も水と戦い水に生き
地元川沿いの人々の実感でもあろうか。
砂利の乱掘も終え、中津川の水は、静かな流れに戻った。曼珠沙華の咲き匂う山里の小川にも、また小魚が戻ってきた。
そうして、いまここに、この川を堰き止めて首都圏で最大、2億トンの宮ヶ瀬ダムが出現した。新しい世紀の神奈川県民の命の水として苛酷な使命を与えられたのである。
移りゆく歴史という時代の中にあっても、願わくばこの大恩ある川が、安らけくあれ、そして愛する人々のために、とこしなえに、その恵みを与えてくれることを、祈るばかりである。