熊本県三角町長 吉田 等
生きた文化遺産、三角西港が開港したのは、明治20(1887)年8月のことである。
明治9年の神風連の乱、翌年の西南戦争等で荒廃した熊本県の復興や殖産興業の切り札として計画された港である。当初は阿蘇に源を発する白川の河口にある百貫石を適地としたが、内務省から派遣されたローエン・ホルスト・ムルドルは、ここが河口港であり土砂の堆積が著しいこと、有明海の干満の差(4~5五米)が大きいこと、干潟が広大で維持管理費がかさむことなどを理由に難色を示した。彼は時の県令富岡敬明と共に県内を巡視した結果、天然の良港三角を発見し、ここを熊本県の玄関港と位置づけた。
三角港は東に神秘の火を出現させる不知火海、西は海苔の色落ちで喘いでいる有明海、この両海の潮目にあり、両海への出入口は小島で遮られている。そのために航路は狭いが、直接的に風浪の被害を受けることはない。三角の町並みとバテレンの島と言われる大矢野島に抱かれた“海水の湖”と言える。
築港は明治17年から道路開削と並行して進められ、熊本監獄から移送された囚われ人たちが過酷な労働を強いられた。工事は3年余りで完成したが、69名もの尊い生命が失われた。今、私たちは7月20日に町民相集い香を手向けて供養しているが、名も知らぬ人々の犠牲によって出来た港であることを忘れはしない。
さて、西港の特長は2つある。1つは石積埠頭をはじめ築港当時の姿がほぼ完全に残っていること。岸壁は干潮水面下に6段の石積みをしさらに10段積上げ、最上部の海側の縁石は3尺×6尺、厚さ1.5尺の切石で長手方向と小口方向に交互に並べて押さえとしている。排水路の出入口は隅を丸くした石材が優しさを伝え、底は板石を敷きつめ縁石はカマボコ型に整形され、排水路に架けられた橋の欄干に彫られた彫刻も美しい。
2つめは、西洋の都市建設の理念を持ったムルドルが、無人の真っ白な画布に思いのままに絵を描き、それを具現化した港町であろうということである。町は海岸に三日月型した湾曲の岸壁埠頭(401間余)を築き、それに向かって裏山を削り落としながら海と山との間に平地(1万8千坪余)を確保し、人工の土地である平地と自然の領域を排水路と道路で明確に区分し環濠都市を思わせる。平地の中も2本の配水路と国道57号を中心とした道路で区割し行政区、商業区、荷役倉庫区、遊郭区、居住区など整然と区画している。飲用水は井戸水、家庭等の排水は下水溝を巡らして排水路から海に流している。
私たちは明治32年に開通した九州鉄道が延長されず貿易港としての機能を三角東港に譲った西港を、寂れた一漁村としか見ていなかった。その私たちの目を開かせてくれたのが堀内熊大教授らを中心とした建築学会の人々であり、昭和58年に「西港シンポジューム」を開催、近代土木遺産としての価値を世間に知らしめた。
「灯台もと暗し」とはよく言ったものだ。日々の生活の中の、しかも目に見える所に明治の埋蔵金は裸体を横たえていたのだから。
私たちは町おこしだ、地域づくりだと騒ぎ、何か突飛も無いようなアイデアを出したり、大きな投資をしたりしなければ町おこしはできないと考えがちであるし、都会の生活が最高のものであるかのような錯覚にとらわれ過ぎてはいないだろうか。
私には、100年の歳月を経て蘇った石積み埠頭が、あなたたちは「本当に自分の町を知っていますか?自分を見失ってはいませんか?」と語りかけているような気がしてならない。