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 私とスポーツ「ビーチバレーの町」

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年4月9日

大阪府岬町長 中出春次

昭和30年4月に4ケ町村が合併し誕生した『岬町』は、大阪の最南端に位置し、海あり山ありの風光明媚な環境と人情豊かな町であります。

本町には、縄文時代後期を中心に弥生時代の遺稿・遺物が出土した「淡輪遺跡」があり、大規模な前方後円墳や宇度墓古墳、また古墳群も数多くが点在しており、古代国家をうかがい知る事ができます。また、平安時代の橘逸勢(たちばなのはやなり)父娘の墓、和泉式部の伝承や、紀貫之の「土佐日記」にも「黒埼の松原」として、この地の名がとどめられています。

そんな歴史と豊かな自然に恵まれた、わが岬町も大きな変貌を遂げつつあり、茅渟(ちぬ)の海の一角にアジアのハブ空港たる「関西国際空港」が開港し、泉州全体が空港周辺都市として大きく生まれ変わりつつあります。

岬町では関西国際空港2期事業に伴う土砂採取が、いよいよ本年4月より搬出され、今後跡地利用がまちを大きく変えていくものと予想されます。

また、総合計画で海洋リゾートゾーンとして位置付けされた泉南里海公園では、毎夏大阪マリンフェスティバルが開催され、ヨットレースやビーチバレー大会、花火大会、コンサート、町・住民・団体による各種イベントなど真夏の祭典が繰り広げられます。

特にビーチバレーはなくてはならない存在で、全国に1つしかない常設コート(潮騒ビバレー)では、オリンピック予選の大阪大会として、世界各国の強豪を迎えて行う、女子ビーチバレー世界選手権や全日本女子選手権。また一般参加大会では2,000人余りの応募の中、熱戦が展開され『ビーチバレーのまち』として知られるようになりました。記憶に新しい昨年のシドニーオリンピックで活躍した、佐伯・高橋組も毎年この潮騒ビバレーで世界を目指して頑張っておられます。このシーズン全国各地から、みさきの夏の思い出を求めてたくさんの人が訪れます。今年もどんなドラマが生まれるか今から楽しみにしております。

私も時折、晴れた日の夕暮れにここに来ることがございます。そしてヨットハーバーの林立するマスト越しに見る赤い夕陽(平成11年日本の夕陽百選に選出)と明石大橋、関西国際空港のイルミネーションが、素敵なコントラストを描きだし、ゆったりとした癒しのひとときを与えてくれます。まさに自然の恵みに感謝しております。

そんな新しい海と古い海を知る私は、5人兄弟の長男として深日地区の漁師町で生まれました。家から海まで指呼の距離で、幼少の頃より海に慣れ親しんで参りました。台風シーズンになると海抜2~3mしかないため、旅館業を営んでいた家の玄関先まで打ち寄せる波に驚かされる事も度々あり、今では考えられない思い出として残っております。今は当時の面影もなく、漁港として整備されております。

地元の中学を出た後、和歌山県立星林高校に通いました。入学してすぐ私は、「何かスポーツをしたい」と思い、昔から走る事が好きで、中学時代は泉南地区でのトップクラスの俊足を活かし、ラグビー部に籍を置くことにしました。3年間ウイングとして、泥んこになりながら走り、転げ回った思い出。「いつか花園へ」を合い言葉に、県大会で決勝へと駒を進め、3度古豪の壁を破れず涙した思い出。その1つ1つが私の青春の思い出として、今でも心にしっかりと生きています。そしてラグビーが教えてくれたもの、与えてくれたものが今の私の礎になっていると言っても過言ではありません。スクラム(仲間との連帯)パス(情報等の伝達)継続、展開、そしてトライ(到達)。まさに1人でできるはずがなく、いかに人との繋がりが大切かということを身を持って感じました。

高校卒業後、旅館をしていた関係もあり町役場(合併前より)に37年間奉職いたしました。その後、町議会議員(1年8ケ月)を経て、町長選挙に立候補し、本年2月に住民の皆様の力強いご支援と温かい励ましにより当選の栄に浴し、引き続き3期目21世紀初頭の町政を担当させて頂くことになりました。

今後も第3次総合計画の基本理念の1つである『住民・事業者・行政の協働のまちづくり』をめざし、自然との共生を基本的な視点として、2010年まちの将来像『笑顔あふれるいきいきタウンみさき』の実現のため、頑張って参りたく思っております。