長野県長門町長 北澤貞利
「ほしくそ」とは、石器の材料として使われた黒耀石の俗称である。土地の者は、このキラキラ光る黒い石を、遠い星空の彼方から降ってきた不思議な石と信じ、野良仕事の合間に手にした石を眺め、親しみをこめてその名を言い伝えてきた。小さな峠の名もまた星糞峠である。
下品だと言う人も居る。いや、素朴で豊かな表現が良いとも言う、いつの時代に名付けたかを知る由もないが、この呼名から当時の豊かな人間性が偲ばれる。
この星糞峠については、その実態は長いこと謎に包まれ、数万年ともいわれる気の遠くなるような時代を経て、江戸時代には幕府直轄の御巣鷹山として、鷹狩に使う雛鳥を育てる山として保護され、村人の立入りは厳しく監視されていた。その保護区の面積は503ヘクタールで、立木は一12,661本と記されている。
その後、明治期には国有林として造林が行われ、入山規制は村人の自由な入山を拒み続け、一般の立入りが可能となったのは、戦後の入植者による開拓の手が入ってからのことである。
遺跡として注目されるようになったのは、地元の考古学研究者児玉司農武氏によってであったが、本格的な遺跡調査は、町が計画したスキー場建設にあたっての明治大学考古学研究室の手によるものである。
1984年以来続けられた調査成果は、我々の想像を超えた地域像を認識させるものであった。悠久の眠りから人の手によって拓かれたこの原野の遙か数万年前にさかのぼる旧石器時代、ここから採掘された黒耀石は、その場で加工されたり、原石のまま持ち出され県下、あるいは遠く関東地方の縄文時代集落まで流通し、石鏃や槍そしてナイフに加工されていたと言う。
更に驚くべきことは、星糞峠から虫倉山の稜線にかけて広がる原生林一帯に散在する195基に及ぶクレーター状の凹地は、「黒耀石採掘鉱山」であり、痕跡に散らばっているキラキラ輝く星糞は、彼らの手による黒耀石の割屑だと言う。
どんな時代にどんな自然環境の状況でどんなロマンが展開されたであろうか。
いまこの土地は町有林として国から譲り受け、新たな遺跡の調査を待って静かな森の中に佇んでいる。
かつてこの地は、黒耀石を求めて多くの人達が往来を繰りひろげてきた黒耀石のメッカであった。当時の環境や自然条件のもとで、どのような人達が、どこから、どこへ、どんなルートを辿り運ばれて行ったのであろうか、人から人へ、手から手へ、その広がりは又情報文化の広がりでもある。
星空の彼方から降ってきたと言われる黒耀石の秘めるロマンを知ることのできるのはほんの一握りに過ぎない。
いま鷹山では、明治大学附属施設として黒耀石研究センターの建設が進められ、そのルーツを解き明かす手掛かりが出来た。町でも遺跡の保存活用と、かつて鷹が巣立った縄文の森創りに取り組んでいる。
21世紀星糞の森が私達にどんなメッセージを贈ってくれるのであろうか。
尽きぬ星糞の森に夢を託して、新世紀のスタートとしたい。