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 その一言

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年1月29日

三重県青山町長 松原美省

(1)

シドニーからの一言で、心に残ったのは、「メッチャクヤシイ」と「弱いから負けました」であった。銀ならではの名セリフ。単に言葉の響きのよさでは、人々は心を打たれない。その一言、一言に凝結されているお2人の、ここにくるまでの練磨・研讃・自己変革への自負に思いを重ねて、日本中が感動させられた。何度言い返しても、今もなお心ゆさぶられる名セリフ、ではある。

(2)

わが町の青山中学が、今年も、伊賀地区陸上で18校のトップ、男女総合優勝に輝いた。と校長先生が報告に来られた。次の週に開かれた三重県大会でも「三段跳優勝、○○2位、△△2位…」校長先生の話は続く。「昨日の大学出雲駅伝には、青山中の卒業生が2人出場しています。」私は嬉しくなって、「進路次第では、大阪オリンピック出場も…。」と調子のいい話をしてしまった。

校長先生は真顔になって「生徒にとっては一生のことですので、彼等は真剣です。僕も時折、昔の教え子から『先生のあの時の一言が私の一生を決めた』と告白されると、教師冥利もさることながら、教室での一言が恐くなります」と話された。

私にだって、幼い頃の、担任の一言にまつわる思い出は、1つや2つの止らない。思うに。わが恩師の、その瞬間の一言は、ただ一言ではない。何ベンも何十ペンも所をかえ、言葉を選んで、私に投げかけて下さっていた。その何十ペンの中の一言を、かろうじて私が受信できたのだろう。

きっとそうに違いないと、私はその一言をふりかえる。

(3)

たかがスポーツ、ではない。されどスポーツ。場面は再び、シドニーに戻るが。開会式で、北と南のコリア選手団が入場してきた時、私の涙線は全開した。それはまさに、一言不要の感動であった。日本と第一戦を闘った南アフリカ・サッカー選手もまた、深い感動をくれた。アパルトヘイトと闘って、「黒い人も、白い人も、共に自由に生きる国を作ろう」というマンデラの指導を実現した、その国の魂が、1人1人のプレーに生きていた。彼らは日本選手を敵とはしていない。《日本選手と共に、最高のプレーをせりあって、最高のサッカーをやろう》。南アフリカの選手が見せた立国の思想が、私の目に、まぶしかった。

(4)

話は又、ガラリとかわる。先日わが国の女性代議士が「憲法を改正するとしたら、まっ先に改めたいのは前文のおめでたい部分だ」と公言していた。その部分とは、《平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》というのだから、なんともつらい話だ。

まわりを眺めると、状況は見えてくる。南アフリカの憲法草案ともいわれたフリーダムチャートの一節では、こうだ。《南アフリカは、戦争に訴えることなく、交渉によって世界平和とすべての国際紛争の解決をはかるよう努力しなければならない》と。

金大中さんの勇気も、マンデラさんの寛容も、わが憲法前文も、それらは一つの水脈となって21世紀に向かって流れている。すでに滔(とう)々たる世界のスタンダードだ。

秋、夜長。そばで手仕事をしていた妻が、突然「私らアカの他人やのになぁ」と呟やく。心のうちで、2人で来た道を受け容れているのだ。妻には苦労のかけっ放しだった。

そうなった事始めの一言はヒミツだが、そのおめでたい一言が、2人の人間に、半世紀を歩ませた。急に虫が鳴き止んだと思ったら外は静かな雨。

コホロギの翅案じてや妻寡黙