栃木県足尾町長 齊藤重二
栃木県史に「足尾銅山の存在は、単に栃木県のみにとどまらず、日本近代史全体に大きな意味を持つものである」(近現代史九)と記されています。
足尾町は昔から、足尾といえば銅山、銅山といえば足尾、といわれたほどに日本屈指の銅山によって栄えた町でありました。
銅山は1550年に発見され、主として徳川幕府の管理下にあり、江戸城や上野の寛永寺、芝の増上寺を始め、日光の社寺などの銅瓦や、寛永通宝の足字銭などを造り、町は足尾千軒と呼ばれ繁栄した時期もあり、特に明治以降は国の殖産興業の方針のもとに、生産は急激に増え、我が国の代表的鉱山となって社会に貢献をしました。最盛期には町の人口も約4万人に達しました。1903年(明治36年)発行の蓮沼叢雲著の「足尾銅山」によれば、「ここに四萬の人口棲息し、電信にあり電話あり電燈あり鐵道あり鐵索あり、学校警察署郵便局等あり、地方の首たる都会に於てすら多く見ざる諸機関の全く備わって文明の光燦として輝きつゝあろむとは。足尾の繁昌、足尾の文明や眞に驚くべきものあり。」と書かれています。
銅の生産が増えるに伴って、その一方では事業用、生活用の木材の需要も激増し、森林の乱伐に加えて製錬所から排出される亜硫酸ガスによる大気汚染で山林畑などの煙害の発生、更には山林火災が煙害地の荒廃に拍車をかけ、加えて大雨等による土砂の流出となって渡良瀬川の水質汚濁の一因となり、自然破壊は拡大の一途を辿りました。我が国の公害の原点の始まりです。
この荒廃地の復旧工事は、明治中期に政府の鉱毒予防工事命令によって始まり、以後現在も国県鉱業権者等によって諸々の工事や施設の整備改善等が実施されています。
そして今の足尾は、かつての荒涼とした山肌には豊かな緑がよみがえり、渡良瀬の渓谷には清流が流れ魚の泳ぐ影が見られるまでに変わりつつあります。
足尾には、天然の自然と人工の自然が両立していると、自分なりに勝手にそう思っています。天然の自然はさて置いて、人工の自然の生い立ちは足尾銅山の存在と表裏一体の因果関係にあると見ることが出来るからです。
天然の自然が社会の開発発展に伴って人間によって壊され、その人間の手で人工の自然が復旧し、環境整備が進められています。
足尾銅山は、悲喜交交、数々の明暗を織り交ぜた歴史を創り残して1973年(昭和48年)開山以来423年続いた生産を終止して閉山しました。
地球規模で、自然保護、環境問題に最大の関心が高まっている現代、足尾銅山の歴史はこれらの課題に直結する生きた教材として私どもの身近に在ります。2つの自然には、開発に際しては自然と人間との共生を図り、均衡を保つことを教えられ、国内には操業中の鉱山が殆んど無いと聞かされたとき、足尾銅山を産業遺跡にとの思いも湧いてきました。
足尾銅山に係わる有形無形のすべてを、可能な限りに探求し、現場に保存整備を施して個性ある町づくり「全町博物館化構想」(エコミュージアムあしお)の具現化を夢みて進めている次第です。