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 忍耐こそ我が生命

印刷用ページを表示する 掲載日:2000年7月24日

愛知県町村会長 旭町長 塚田武士

私は、昭和18年3月国民学校高等科2年を卒業しました。学歴はそれのみです。それには理由があります。その年は太平洋戦争の最中で、折悪しく1月5日に父がパプアニューギニアへ従軍しました。残された家族は病気の母と小学6年の弟以下零歳児の妹を含め6人家族でした。弁当は竈で薪を焚き麦飯に沢庵漬か梅干しが定番と言う状態でした。

その頃、私は予科練を志しており少年航空隊員にも選ばれていましたので、大空を飛び交い国土防衛の尖兵たらん決意を持っていました。ところが少年の夢は無残にも砕かれ炊事から家業である農業を一手に担うことになりました。校長先生から旧制中学校の推薦入学もして頂きましたが断り、人力による農業と、冬は手に皸(あかぎれ)を切りながら山仕事をし、金を稼ぎながら生計を立てました。終戦当時食料難の時代は山を切り開き開墾して甘藷を作り食糧を確保したのもつい昨日のことのように思い出されます。

24歳のとき旭町職員に採用され爾来公務員生活を送ることになりました。その当時1番悩んだのが字の下手なことでした。おまけに新任務が戸籍係で当時は手書きでしたから悩んだ末在る書道会に入会して毎晩少しずつ勉強しました。下手ながら何とか恰好がつくようになったら土木課へ配置替えとなり、又難題が降りかかりました。土木は技術職ですから測量、設計の知識をマスターしなければなりません。そこで書籍を読み漁り、密かに40kmもある市までバスにて関係図書を買いに行ったり、なりふりかまわず若い人や県の職員に尋ねたりして必死に勉強しました。朝方までタイガー計算機を回し、終に40歳前半にして鋼道路橋の全体設計ができるようになりました。その後土木課在任中は橋梁を始め測量、設計でコンサルタントに委託したものはありません。今町内を巡回したとき自分の設計した橋梁を見ると感無量です。

「為せば成る。」の諺は人の為にあるのでなく自分の為にあると実感しております。

私は、法螺を吹くためにこの自伝を書いたつもりはありません。最近の職員の勤務を見る時本当に嘆かわしく思っています。簡単なことでもコンサルタント委託が常例化している。(これは当町のみではない。)こうした風潮はどうしたものでしょう。基本をマスターしてこそ応用も可能になりますし、検収や指導も出来るのではないでしょうか。学歴では仕事はできない。研究と努力そして忍耐こそが能率向上の原点だと考えています。とかく学歴偏重社会にあって少しも自己卑下することなく、むしろ独学の誇りをもって生活できております。このように大きな事を言っても人間としてみればまだまだ未完成で不勉強なことばかりです。古希を過ぎましたが生涯青年の気持ちを失わずに頑張るつもりです。

「努力だ、勉強だ、それが天才だ。だれよりも3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。野口英世」