山口県橘町長 中本冨夫
将来何になって身を立てようかという時、人は夫々色々な思い出があると思います。
私は叔父が獣医をやっていましたので物言わぬ動物を助けるのが尊い仕事ではないかと言われ、獣医になる決心を致しました。
昭和17年に麻布獣医専門学校に入学致しました。丁度太平洋戦争が勃発した翌年の4月でありました。
北は北海道、南は台湾、モンゴルからの留学生も数名居り150名が入学致しました。
時あたかも戦勝ムードに湧いていましたのでラジオ放送も大勝のニュースばかりでありました。
然し、歓楽街の紅い灯は段々と消えていきました。先輩達は銀座を飲み歩いた等と話して羨ましく思いましたが、日本軍が南方戦線で苦労しているニュースを聞きます時に、贅沢は出来ないと遊びは極力控えての生活でありました。
入学当時親からの仕送りは30円でありました。2年生になってやっと2円増額され32円の仕送りをしていただきました。この32円で食費、下宿代、電車賃を捻出致しました。本郷より麻布までチンチン電車に揺られて40分の通学でありました。
こうしたぎりぎりの生活をしていましたが、戦争も段々と熾烈さを加え、同級生の中には獣医学を捨てて海軍予備学生、或いは特別操縦見習士官に志願して学窓を去る者も数名居りました。従って卒業も繰上げ卒業となり、20年4月を待たずに19年9月卒業になりました。
戦況も段々と不利となり緊迫の度を深めて居りました。
卒業と同時に農林省畜産試験場中国支場に就職が決っていましたが、理科系の学校という事で徴兵猶予となっていましたので、直ちに20年1月に広島野砲五連隊に入隊する様にとの召集令状が来ました。寒い小雪の降る日に野砲隊に入隊致し星1つの新兵となりました。
朝早くより夜おそくまで野砲の操法、乗馬訓練、馬の管理、上官の洗濯等々ビンタも相当張られましたが、軍隊はこういう所だと思っていましたので文字通り歯を食いしばって頑張りました。飯盒の数、星1つの重みが身にしみてわかりました。
然しそれも3ヶ月で終り東京陸軍獣医学校に派遣を命ぜられました。ホッとしたのも束の間、短期入学という事で猛烈な特訓を受けて広島野砲隊に復帰したのが7月の始めでありました。
当時は戦況も極めて不利となり各戦線共後退をして居りました。連合軍は次々と南方諸島を占領し、次は高知湾に上陸するであろうと布陣して居りました野砲5050部隊の獣医官として配属されました。此処で始めて獣医官として認められ一人前の仕事が出来る様になりました。
既に馬糧も少なくなり腰麻痺になった馬も沢山居りました。薬品も少なく腰麻痺は少々の栄養剤の補給では起立致しません。既に焼野原になっていた高知市内を探し歩き薬品の購入、或いは農家を歩き無理に馬糧の提供をお願い致しました。
8月15日遂に終戦を迎えました。残務整理の後、9月末になつかしのふる里に帰り、やっと戦争も終ったなあと安堵致しましたが、早く復職する様にとの事で休むいとまもなく畜産試験場に復帰を致しました。
中国試験場は島根県の太田市に在り、主として黒毛和牛の研究機関でありました。和牛の勉強を2年やり24年に故郷に帰って参りました。
終戦直後であり食糧増産の真只中であり、生めよ増やせよの時代であります。然し肝心の肥料が無いので乳牛を飼って堆肥を作り、更に乳を売って金儲けをしようと乳牛の宣伝を致し、すばらしい勢いで乳牛が増えました。私の町のみでなく隣の町にも波及していき農家は殆ど乳牛の飼育を始めました。
みかんも堆肥のお蔭で増産され農家は活気に満ちました。乳牛は1年に1頭仔を生まないと儲けになりません。その為には適期の人工受精が大変大切になります。又乳牛には乳房炎という病気があります。非衛生的な管理や搾乳技術が悪いと乳房の病気になり搾った乳が売物にならず、又、乳が出なくなり致命的な打撃を受けます。当時大島では私1人が獣医でありましたので正に多忙の極みでありました。
現在北朝鮮でも実施されて居ります兎を動物性蛋白源として飼う事を奨励致しました。ネズミ算式にどんどん増えて行きましたが、肝心の兎を処分する人が居りません。仕方なく正月には数百羽の兎を屠殺して農家に還元したり、或いは治癒の見込みのない家畜を屠場に送る時は、命ある者を殺さねばならない宿命を悲しく思った事は度々ありました。
反面難病が治ったり難産の末無事仔牛が生まれた時は本当に嬉しく近所の人々も招き祝杯を上げました。当時はまだ酒を飲んで車に乗ってもいい時代でありましたので数々の失敗談もありますが、こうしてワイワイガヤガヤ言って飲んだ仲間が後の私の選挙母体になった方々であります。それが現在に及んでおります。
堆肥を施す為みかんは品質のいい物がどんどん成り、作れば売れる時代でありました。
国の奨励により農業構造改善事業で水田は殆どみかん園に転換され、従って稲藁も無くなり飼料作物の栽培も出来なくなり、加えてみかん労働と乳牛飼育労働とが競合し、高齢化も進み乳牛の姿も消えて仕舞いました。然もあれ程作れば売れるみかんも生産過剰となり、現在みかん農家も大変苦しい状態におかれています。
歴史は繰り返すと言われますが、島ではもはや乳牛を飼う時代は来そうもありません。こうした変遷があってこそ歴史はなりたつのかもわかりません。
昭和20年陸軍獣医官として始めて聴診器をにぎって以来、平成3年町長に就任するまでの45年間獣医、特に産業動物の獣医として数々の動物の命を救う事が出来た事を誇りに思い、若し獣医でなかったら、8月15日の原爆によって命を終えたであろうと思う時、獣医になった運命を喜び、生かされている事に感謝し、亡き戦友の為に、又、町民の幸せの為にも懸命に頑張るぞと誓うものであります。