長野県栄村長 高橋彦芳
東京大田区にいる友人の案内で、去年の10月下旬、1日かけて同区にある町工場(こうば)を訪ねて歩いた。区役所を表敬訪問して山本助役さんにごあいさつをした後、早速、京浜島にある北嶋絞製作所を訪ねた。この製作所は、大田区の町工場で長年旋盤工として働きながら文筆活動をされてきた作家の小関智弘さんの著書に、スペースシャトルやジェットエンジンの外枠を絞った町工場として出てくる有名な工場で、かねてから行ってみたいと思っていたので真先に選んだ。
絞るというのは、鉄板を鍋や洗面器のような形にすることで伝統技能の1つである。従って昔はほとんど手絞りだったが、今では機械による自動絞りやオスとメスの金型の間に挟んで、強い力でプレスして量産するのが主流になっているようだ。しかし、スペースシャトルやジェットエンジンの外枠のように、高熱にたえるために刃物も歯がたたないほど堅い鋼を使うものや精度の高い特製品は伝統的な手絞りで作ることが多いという。
北嶋一甫社長に工場内を案内していただいた。挺子棒のようなものを小脇にかかえて、回転する鋼板に向っている職工さんの後で立止まり、「これが伝統的なへら絞りだ」と説明してくれた。金型の後へ鋼板を取り付けて、旋盤のように回転させながら、へらという道具を鋼板の中心に挺子を応用して押し付け、少しずつ外側にずらす作業を繰り返していくと、鋼板は金型の方へ湾曲して絞られていく。指先や挺子棒をかかえている脇の下に伝わる感触を利用して、厚むらのない製品に仕上げる。
ハイテク機械ではなく、この伝統的なへら絞り工法でミクロン単位の精度に仕上げるという。宇宙飛行という世界の最先端技術の一端を町工場の伝統技能が支えているなんて夢を見ているような話だった。社長の指を指す方を見ると、直径2メートル以上もある鋼鉄製のパラボラアンテナが天井から吊されていた。
北嶋絞製作所を後にしてからも町工場のマイスターたちの物造りにかける知恵と技能が生きている数かずの仕事場を拝見して、感動した1日だったが、ここでは割愛せざるを得ない。幸運にも視察を終ってから先の小関さんにお目にかかっていろいろ話を聞くことができた。その話で私の町工場の見学を補足しておきたい。
小関さんは、「どんなハイテク機械にも欠点がある。その欠点を見つけて補正するのは人間にしかできない。今、元気のある町工場はこういう人間がいるからだ。機械まかせでは人間もロボットにしか過ぎない。そういうことではいい物はできない。どんな物造りにも人間の知恵や技能は欠かせない。」という趣旨のことを話された。また、小関さんは知恵について著書の中で、広辞苑を引きながら「知恵とは物事の理をさとり、適切に処理する能力で、科学的知識とも利口さとも異る、人生の指針となるような、人格と深く結びついている実践的知識をいう」と紹介されている。
われわれは、常日頃「村づくりは人づくり」などとおうむ返しに言うのだが、果して住民の持っている暮しの知恵や技能を引き出し、育てることに意を用いてきたであろうか。町工場を見て回って、未だしの感をぬぐい得なかった。コメ、野菜、畜産でもきのこでも、機械や資材メーカのマニュアルだけで生産現場は動いてきた。そればかりではない。家庭の台所でもわが家の料理の場が失われ、子どもたちの学校では、盛沢山の科学知識の詰め込みに追われ、子どもらしい知恵を育ててくれないので荒れている。
大田区の町工場でも一時はハイテク企業に押されて工場をたたんだものも多かったようだが、伝統的な知恵と技能で再び町工場の存在をアッピールしているようだ。今、地球規模で環境の保全と生命の安全が問われている。これを追い風にして、農山村に住むわれわれも、1人ひとりが持っている知恵と技能をとり戻して、生きものに優しい産業と文化を創造していきたい。