奈良県町村会長 安堵町長 島田悠紀夫
大和は国のまほろば
たたなづく青垣山
こもれる大和しうるはし
紀元前3世紀ごろ、稲作がもたらされ、奈良盆地は豊かな米作地帯となり、大陸から伝わった高い質の文化は、ここではぐくまれ育ち、政治文化の中心的位置を占め、都城「藤原京」そして「平城京」が造られ、都の基礎を確立し、そこで成立した「飛鳥」「白鳳」「天平」の輝かしい文化がその後の日本歴史、文化の基礎をきずき、政治、経済、文化は大和に端を発し都が「平安」の地に移った後も、東大寺、興福寺、法隆寺、春日大社など数多くの社寺を中心に独自の文化を創造し続けた。
明治維新の廃藩置県で、大和の国が統一され、奈良県が誕生、その後、わずか数年で堺県に、その堺県も大阪府に合併され大阪府の所管になった。1度は独立の県政を実現した大和は、再度にわたる併合、合併を快しとせず分離、独立運動を展開、その運動が奏功し、明治20年11月奈良県が再設置され今日に及んでいる。
豊かな自然と世界に誇る貴重な文化遺産を数多く持つ奈良県は、大陸文化を積極的に取り入れ、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代に、国際交流を盛んにし今日の文化、政治の基礎を築きあげた。
中世には社寺、町家を中心に能や、狂言を生み出し、日本文化の発展に大きな力となった。
近世から明治、大正、昭和にかけては、日本を代表する文化人達が大和の美しい自然、育まれた数多くの伝統文化を賛美し、さらにその確立に力を注ぎ、奈良は“日本のふるさと”であることを強調し、世界に誇り得る日本の文化の原点をここにみつけた。
ユネスコの世界文化遺産に、日本で初めて世界最古の木造建築のある「法隆寺地域の仏教建造物」が平成5年に登録され、名実ともに「世界の宝」となった。
その東に隣接する我が町は、肥沃な沖積地の中にあるため、古代より文化が発達し、奈良時代には「飽波(あくなみ)郷」と呼ばれ、法隆寺文化圏に属し、古代には水陸交通の要衝であったと考えられ、本町の歴史は古くから歴史的文化遺産が随所に見られる。
大和の古道のひとつである聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通ったとされる太子道(すじかいみち)が町内を通っており、太子の開創と伝えられる極楽寺や飽波神社などがある。
また典型的な環濠屋敷として知られる国の重要文化財の中氏邸は、南北朝時代頃から在地武士として成長し活躍した土豪で、二重の濠に囲まれた広大な屋敷は、中世後半の大和地方における平城(ひらじろ)の姿を、今によく伝えている。
著名人には、富本憲吉先生(人間国宝文化勲章受賞者)がいる。近代陶芸の第1人者として、その気品のある模様と器形の追求を通じて、陶芸史上に清純にして華麗な独自の世界を作り上げ、近代陶芸の父とも称せられている。多くの模様の基本は、生まれ故郷である大和安堵の清らかな自然から生まれ出てきたものといわれ、周辺の風景は先生の芸術の根元ともいわれている。
奈良県再設置運動の中心的な指導者として活躍、その大きな原動力となった今村勤三先生も本町の生まれである。先生は再設置後初代県会議長に選出されたほか、現JR奈良線同桜井線の鉄道開通にも尽力(大阪府会議員、衆議院議員にも選出)されるなど、事業家としても大きな足跡を残されている。
なお今村先生の生家は町に寄贈され、安堵町歴史民俗資料館として歴史や伝統、民俗関係資料を展示し一般公開している。
また勤三先生の御子息で今村荒男先生がおられる大阪大学の今村内科といえば、戦前は結核の予防対策、戦後はいち早く成人病問題に取り組み、阪大総長大阪府立成人病センター初代所長(奈良県立医大初代学長)として国の文化功労者表彰を受賞された。
面積わずか4.33平方kmと県下で2番目の小さな町ではあるが多くの著名人を輩出するとともに、歴史文化遺産の残るいにしえののどかな町という側面と急激な都市化の進む町という二面性を持つ町でもある。
町内には安堵工業団地や住宅団地ができ、都市化の波が押し寄せる一方で、富本先生がこよなく愛した古いまちなみや風景も随所に残っている。
本年4月で町制施行13年、歴史と文化を誇るにふさわしい要素を備える土地柄をふまえ、町の将来像を「心と文化の余韻に満ちたまち」ととらえ、町のおかれた状況にマッチした環境の整備、そして外には歴史文化のふる里として、その持つ意義、果たす役割を考え、そこに住む町民のためだけではなく、安堵町を訪れる人達のためにも是非、「歴史、文化、財産を活用した、文化的で精神的な豊かさのあるまちづくり」。その実現のため今後一層の努力をしていきたいと感ずる今日この頃である。