宮城県鹿島台町長 鹿野文永
8月、目下日本列島は台風シーズンの最中にある。
私は昭和50年に町長就任以来、「台風来るな!」と願い続け現在に至っている。
1年が無事に過ぎ新年を迎えると、私は何時も一休禅師の狂歌に思いを馳せる。
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
人生に死期が必ず訪れると同様に、自然現象のもたらす災害もまた、何十年か何百年の確率で必ず訪れることを、私たちは残念ながら覚悟しなければならないと思う。
従って、1年を災害ゼロで過ごしたとしても、冥土への一里塚を通過したに過ぎず、実は来るべき災害に年毎に近づいているのであり、災害ゼロを私たちは手放しで喜べない。
こうして私は正月の度に、災害についての感慨を新たにしながら、町長に就任した当初の12年は無事に経過した。
やがて昭和61年8月5日、鹿島台町は台風10号がらみの1日400ミリという記録的な豪雨により、大水害を蒙った。これがいわゆる、8・5豪雨災害である。
一級河川吉田川は次々に越水破堤し、濁流は出穂直前の美田を呑み込み、住宅をなぎ倒し、電柱を跳ね上げ、一瞬にして鹿島台町の3分の1を泥沼と化してしまったのである。
地獄のような褐色の田園、不安と失望に打ちひしがれた町民の顔、眠気と疲労に耐え黙々と働く万を数える町内外の人々の後姿、これらの光景は生涯私の脳裏から消えることはない。あの苦労を、断じて後世の人々に二度とさせじと、心に固く誓うところである。
よって私は、毎年悲惨な水害が繰り返されているこの日本列島の現状を見るにつけ、「治水無くして平和なし!まちづくりは治水から!」と訴え続けている。
その後建設省は災害復旧事業や激甚災害対策特別緊急事業を採択し、わずか5年でこの事業を竣工され、感謝感激この上ない。今この事業の膨大な費用に思いをいたし、威容を誇る堤防の延長を望む時、あの5年の日々は、鹿島台町にとって1日がその50倍にも値する、貴重な日々であったと、つくづく思う。建設省はじめ関係機関、関係各位に三拝九拝するばかりである。
鹿島台町は、日本三景松島の奥座敷「みちのく温泉」のある町で、仙台市の北、JR東北本線で約37分の位置にあり、仙台市のベッドタウンとして市街地が開けている。
また直轄河川鳴瀬川、吉田川が町の東部と南部を流れ、2本の川の間には肥沃な農地が拓かれ、宮城県が誇る「ひとめぼれ」「ササニシキ」の産地の一翼を成している。
しかし、鹿島台町は閉鎖型の低平地ゆえに、過去幾度も水害に悩まされ続けてきたのである。
8・5豪雨災害以来鹿島台町において、河川堤はじめ治水施設の安全度の向上はめざましい。しかし、自然現象のもたらす洪水に際限はなく、治水事業の成果を超える水害の危険は常に存在する。
そこで建設省、宮城県、鹿島台町は、隣町大郷町、松島町とも一体となって、現在全国唯一の「水害に強いまちづくりモデル事業」に取り組んでいる。「水害に強いまちづくりモデル事業」とは、万一水害を蒙っても被害を最小限度にとどめるために、ハードとソフト両面にわたる多様な事業を進め、町全体を水害に強い構造にしてゆくものである。
具体的には、市街地を輪中する二線堤や避難施設を備えた水(みず)防災拠点等の建設をはじめ、防災無線や総合防災監視システム(光ファイバー)の設置とメニューは豊富である。
私の座右の銘は、「自ら滅びずして、滅びた民族はない」である。水害に強いまちづくりに、私の命を懸けたい。