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 遠い記憶「私の幼時体験」

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年7月12日更新

埼玉県町村会長 花園町長 富田恵三

朝霧に煙る木々の隙間を斜光線が通り抜け、早起きの鳥たちが、賑やかに会話を交わす。空腹なのか朝食を催促する牛たちの合唱が始まる。西の山々は、ベージュのセーターから緑のシャツに衣替えを済ませた。秩父山系に源を発した荒川が、ゆっくり蛇行して関東平野に顔を出す。その荒川扇状地の要の部分に花園町がある。

一昔前までは、養蚕が盛んで、昭和3、40年代には、日本一の出荷量を誇ったこともある。しかし、今では、繭価の低迷で養蚕農家は、僅かになってしまった。

蚕は「御蚕様」と崇められ、物置はもちろん、住宅の大部分が飼育場となっていた。人間は炊事場の横の小さな空間に、肩を寄せあって暮らす毎日であった。

年数回の養蚕時には、寝る時間を惜しんで働く大人たち。それを横目に子供たちは、おおはしゃぎしていたものである。

蚕は敏感な虫で、桑を与える時間、繭を作り始める時期の見極めなど、長年の経験がものをいう。これを即座に判断し、指揮を取ったのが女たちである。「かかあ天下と空っ風」はこのような男女の力関係から生まれた言葉だと聞いている。

我が家でも、多分に漏れず母が農業の担い手であった。私たち兄弟3人を含む総勢7人の炊事、洗濯をこなした。日の出前には起き、暗くなっても働き続ける姿は、とても頼もしく見えた。

その母が特に忙しくなったのは、父が脳溢血で倒れた昭和16年からである。幸い軽度で済んだが、再発を心配して、それ以降父は畑に出ることはなかった。父、母共に48歳、そして、私が17歳の春のことであった。農業高校に在学中の私は、大学へ進学して農業化学を勉強したいと思っていた。しかし、父の病を機に家業を継ぐ決心をした。

特に目立った少年でもなかった私であったが、あることをきっかけにして読書好きな少年へと変貌した。手前味噌になるが、小学校に入学したとき、すでに高等科の教科書を読みこなしていた。これは、虫歯のお陰である。

5歳の時である。余りの痛さに、父が私を自転車の後ろに乗せて、歯医者へ連れて行ってくれた。抜歯、消毒と痛さに堪えながら治療を済ませた。これで、すべてが終わるはずであった。ところが、私の病状は日増しに悪化していった。極端な表現かもしれないが、私の顔の大きさは倍くらいになってしまっていた。

両親の慌て様をみて、私も不安を隠せなかった。結局、歯科医の紹介状を持って、東大病院へ行くことになった。この時我が家は農繁期のため、祖父に連れられ診察を受けた。医師の診断は即入院。このまま放置すれば命の危険すらあるとのことであった。以後半年間、私は窮屈な病院生活を送ることになる。もちろん事の重大さを、知る由もなかった。白い壁に被われた病院の暮らしは、退屈の連続であった。病室の窓から見下ろすと、人や車が忙しそうに動き回っている。蟻の社会のようだ。目にするものすべて珍しく、少しは心を癒してくれたが、それも数日間のことであった。

そんな私のストレスを、癒してくれたのが本であった。入院が長くなるらしいという話を聞いて、東京在住の叔母がたびたび見舞いに来てくれた。叔母は、そのたびに本をたくさん持ってきてくれる。私も、いつしか叔母の見舞いを心待ちするようになっていた。

漫画本からスタートした退屈紛れの読書であった。しかし、いつしか病院内の本棚に置かれた大人向けの本にも興味を持つようになり、読書の面白さに引かれてしまった。お陰で、病院内では読書好きのおとなしい少年で通っていた。

退院の日、看護婦さんから「ご褒美よ」と玩具のサーベルをいただいた。鞘から抜いたサーベルは、銀色でキラキラ光り、近所の子供たちに自慢したものであった。

68歳の今、私の読書好きは続いている。そして、歯の大切さを身をもって体験したことから、歯は大切にしている。また、痛みに堪える我慢強さもこの時培われたものと思っている。幼少の記憶がこれほど鮮明に残っているのかと、首をかしげる方も多いのではないか。しかし、私の心には克明に残されているのだ。5歳の、それも半年間の幼時体験が、私の人生観の礎を築いたと言える。