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 「菜の花忌」に想う

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年6月14日

愛知県町村会長 東浦町長 井村徳光

司馬遼太郎が忽然と亡くなって、もう3年が過ぎたが、私の心の中にはこの作家はまだ生きつづけているようだ。1ヶ月の間に手にする本や読み物の中に必ず一編は「司馬遼」の作品が混っている。司馬遼太郎さんが亡くなられた時に私が詠んだ歌に<この春の目につく花の色にして逝く人悼む「菜の花の沖」>があり、今春も菜の花を目にすると不思議と面識のあった作家のように思えるのです。実は亡くなられる少し前から「週刊朝日」に待ちに待っていた「濃尾参州記」がはじまり、喜んでいた矢先の事でした。「週刊朝日」に「街道をゆく」が始まったのは、昭和46年1月1日号ですから、25年目にしてようやく美濃・尾張・参河、すなわち私たちの住んでいる地域の歴史が始まったのです。「歴史が始まった」とは大げさですが、私の住んでいる地域を「司馬史観」を通して学べる機会に恵まれるのです。喜んだのも束の間、亡くなられての1ヶ月後の3月15日号までのわずか7回で未完のまま絶筆となってしまいました。その時に私が詠んだ歌は<街道の新しきこと教わりし「濃尾参州記」は未完におわる>でした。

東浦町の歴史上の人物に「於大の方」が居ります。徳川家康の生母で東浦町緒川城主の水野忠政の女として生まれた生誕地なのです。町の人口は、4万5千人を超えるまでに増えましたが、他から移り住んだ方が多いので「ふるさと発見」の1つとして水野家の菩提寺「乾坤院」に隣接して都市公園「於大公園」をつくり、図書館などの公共施設から公園までを「於大の道」と名付けた小川の堤の桜並木を、花の咲く頃「於大姫行列」などを繰りひろげてきました。ですから、わずか7回の連載でしたが、その濃尾参州記は知っている所が随所に登場して親しみを覚え、「そうだったのか!」と新しい発見をしては驚き、まさに感激の連続でした。返すがえすも惜しい人を亡くしてしまいました。

司馬遼太郎の著書から実にいろいろな事を教わりました。枚挙にいとまありませんが、例えば、月刊「文芸春秋」の巻頭に10年間も連載された「この国のかたち」は読む度に目からうろこが落ちる感じで、ある所は何度も読み返したり、時々のスピーチに引用させていただいたりしたものです。

その中の一編に日本の中国山中の「たたら鉄」が朝鮮半島と深い関り合いがある事を知り、朝鮮半島からの渡来文化に多少の関心をとめるようになったお陰で、韓国人の呉善花(オソンファ)さんの著書「スカートの風」を興味深く読む事になった。その後、呉善花さんは日本と韓国の神話の共通性を日本各地を歩いて実証した著「攘夷の韓国開国の日本」で山本七平賞を受賞されたが、司馬史観を裏付ける面白い本でした。もうだいぶ前になりますが、石川県門前町長宮丸冨士雄さんのお招きで「日本海文化サミット」に出席した際に金達寿(キムタルス)さんから古代の日朝交流史を聴いた事も、司馬史観とつながり興味が尽きません。惜しくも金さんも亡くなられました。

また司馬遼は「文明と文化」について多く語っております。この文化とは、見ていて快いものをいいます。習慣、慣習という意味を強調します。私たちの地域は、他から異習慣を持って移り住んだ人たちが沢山増えました。異文化の交わりで、お互い不快を感ずる場も出てきました。このように文化をとらえると、最近の社会状況はうなづける点が幾つかあります。皆んなで新しい文化を構築していく事が大切だと感じます。

未公開講演録「司馬遼太郎が語る日本」が5巻も刊行されたりして、今なお生々として日本を愛し、人間を愛し、そして今の日本を憂う司馬遼太郎の心が、私の胸を強く打ち続けているのです。