三重県美里村長 新 義雄
1.至誠に悖るなかりしか。
1.言行に恥ずるなかりしか。
1.気力に欠くるなかりしか。
1.努力に憾みなかりしか。
1.無精に亘るなかりしか。
この五省は、私が少年期の頃に、常に反省の言葉として、又、強く正しく生きるための座右の銘でありました。数十年余を経た今日に於ても忘れることのできない格言であります。
今日の自由社会にあっても大変意義のあるものと信じております。
半世紀にも及ぶ時代の変化は全く想像を絶するものがありまして、過去に思いをおこすとき夢のような社会が現実のものとなっておりますが、これも一重に戦後の復興に全力を尽くされた先輩各位の御労苦のお陰ですね。
小学校2年生の時、母と死別以来、父と兄夫婦の手によって育てられた私ですが、回りの方々の愛情と恵まれた友達のお陰もあり、かつ、又、体育スポーツに熱中することにより、亡母への思慕も薄れてしまい、涙したことの記憶も少ししか思い出せません。
高学年になるにつれ、自分の将来も考え、丁度14歳の都市に大空への道に入りました。激戦のなかで同級生の半数に及ぶ戦死者、当時の面影を偲ぶとき、何故か頭の下がる思いがいたします。
敗戦を機に故郷へ帰り、全く経験のない農業に専念したのも、食糧難の時代でもあり1つには、義兄の戦死による跡目相続も関係しております。それこそ自由に土と親しむ生活を目指しておりましたが、突然に区の役員を指名されお受けしましたものの、当時は、県道の整備も区民の出役により保全に力を入れ、又、時には土木事務所より受託して県道改良をした経緯もありました。今日の時代では、考えられないことですね。
斯かることが発端として政治に強く関心を持つようになり、議会人として活動に専念いたしておりましたところ、図らずも平成元年村長に就任させていただき今日に至っておりますが、私にとりましては運命の悪戯では済まされない力強い何かがあるものと思われてなりません。
歴代村長の意志を継承する中で、圃場の整備は可能な限り推進出来ましたが、農林業不振の現状を見る限り、後継者の育成を中心に、集団営農の体制確立こそが緊急の課題と認識し、討議をいたしております。
お陰をもちまして本村の道路もかなり整備されてまいりました。特に、平成5年に国道昇格になりました津上野線も、年頭の長野トンネルが事業推進の運びとなりますことは、感無量のものがあります。
往時の伊賀街道は、中世から江戸時代にかけて、京、大阪方面から参宮道として、旅人の往来もはげしかったといわれ、長野宿にも当時の有名人が宿泊されたようです。因みに記録を調べたところによると、室町幕府6代将軍足利義勝の子義視、織田信長の次男信雄が、江戸時代に入って俳聖松尾芭蕉、勤皇家高山彦九郎、詩人頼山陽、幕末勤皇の志士吉田松陰、測量学者の伊能忠敬等の通行宿泊があり、今も当時の商号がたくさん残っております。しかも当時の名残をとどめる「三舟の常夜灯」「犬塚地蔵」「久須姫古墳の碑」「長野城跡」等々、歴史をひもとけば流石伊賀街道かなと、想いに更けることを暫し、歴史街道フェスタの主街道から漏れたのが残念の極みです。
現在、本村の重要施策は、農業集落排水、特定環境下排水、簡易水道の整備統合、中学校の移転改築、福祉対策等であります。「健康で生きる喜びに感謝して」