青森県町村会長 相馬村長 山内一義
わが相馬村は、歴史的な知名度はゼロに等しいが、遺跡や伝承は数多く残っている。平安時代大同2年(807年)坂上田村麻呂の東征のおり、戦乱が我が村にもおよび、相馬山の蝦夷を討って、その首長を葬ったと云う石堂塚の伝説が伝えられている。鎌倉時代(1333年)執権北条高時が勤王派に敗れて、幕府が滅び、一門の残党が奥羽津軽に逃げ、最後に籠城した持寄城の跡が村の中心部に残っている。落人の一部がこの土地に土着して田畑を拓き、住みつくようになったのが建武2年(1335年)頃からであろうとも伝えられている。又明治22年1月第97代長慶天の御陵墓参考地とされた地も、現在紙漉沢(古くは紙を漉いたとの説)地区境内地の山頂に保存されている。
わが村は、弘前市の西方向に隣接し、南は白神山地で秋田県に隣接している。北側は岩木川を境界とし、東側は岩木川にそそぐ栩内川を境界にし、村の中央部を貫通する相馬側(岩木川支流)があり、河川平坦部に水田、丘陵地はりんご園と云う農山村で、基幹作目を米、りんごとする人口4,000人の比較的土地条件に恵まれた村である。
昭和9年、日本曹園(株)直轄の舟打鉱山が開鉱、亜鉛5.2%、鉛2.0%と含有量が少ないながらも乍らも鉱山人口が増え、800人以上を記録し、非常に活気に溢れ、村自体もその影響により財政的にも大いに潤った時もあったが、昭和37年貿易自由化の先例を受け、鉱山が閉山になり人口の流出が始まった。昭和45年の過疎措置法の次元立法以来、今日迄過疎指定の中で、インフラ整備に努めているところである。逸早く農村振興計画(昭和32年)の取組みを始め、農村構造改革計画(昭和40年)山振、果樹濃密、生産団地総合整備、林講等々、ハード。ソフト両面に亘り積極的にその進捗を図ってきたところである。又生活用雑排水の処理等生活環境整備の必要性に着目、昭和60年特定環境保全公共下水道事業に着手、翌年より処理人口の少ない集落に付いては、農業集落排水事業を導入し、現在約100%の水洗化を達成している。事業導入には様々な溢路もありましたが、この水準は県下にはなく、村民のご協力に敬意を表しているところである。地域づくり、村づくりに思案し、「ふるさと創生」に起爆し、財源の乏しいながらも温泉(標高140m)ボーリングに成功し、体験交流施設(白鳥座)の建設を始め、天文台、森林科学館、パターゴルフ、スキー場(夜間照明)等々の諸施設を有する「星と森のロマントピア」(一帯の名称)が当村の顔として知名度を高めている。また、農村青年を主とする交流事業も活発であり演劇祭を始め、産直交流、グリーンツーリズムを通して、地域形成に対する意識醸成、連帯強調が時代を担う活力として機能することを念じている。
基幹作目の中でも、りんご産業を主とする構造故、水田との労力配分の問題、農業者の高齢及び担い手の不足、雇用人夫の激減等により水稲栽培を根本的に見直しをする事にした。11組合の生産集団を解散、一本化した新集団の設立、問題点として、農業用の処分及び買上げ、水系による入り合い調整等々、行政支援の中で解決、育苗施設も竣工し、今春より機能している。全村の一本化、稚苗(2.5葉~20日)植付けは、県下、若しくは、東北管内にない画期的な取組みであり、わが村の気力に期待を寄せているところである。人口の流出を止め、人口密度を高める事から住宅産業の見直しを図り、平成8年に宅地造成事業(街並み、町づくり事業)を導入、分譲完了しているが、好評の内にユニークな街並み(103区画)が実現し、当村の活性化に弾みを生み、二次の開発が待たれているところである。展望に立脚し村民の民生安定に与するハード、ソフト両面に亘る社会資本の整備こそ喫緊の課題であり、21世紀に向けてプロジェクトの取り組みにより一層の努力が求められる。市町村圏域、ふるさと圏域を包括する広域連合の設立により、介護保険制度一連の業務を広域で執行する事も地方分権型社会移行へのステップとして今後大いに機能させたいものと考えている。
権限委譲による、受け皿規模の問題、地方財源の確保とくに税収不足等から、自治体運営上厳しい選択が迫られる事を想定する時、地域に拘泥した井蛙的な意識から広域行政への転換も、段階的な選択肢下にあるものと認識を深めているところであり、分権社会に向け、移行する現下にあって、地域への「こだわり」から目覚めるのが何時の時になるだろうと考えている。