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公僕、半世紀「今を大事に、全力投球」

印刷用ページを表示する 掲載日:1999年4月12日更新

新潟県入広瀬村長 須佐昭三

◆半世紀

「新潟県農業会技手を命ず 月給65円を給する 昭和20年4月1日付 県農業会長長岡田正平」の辞令を頂戴し、農業技術員として赴任、終戦、入広瀬農業会に転任したのが1947年(以下西暦表示)そのよく48年農業会は解体、農協の発足で48年4月1日付で入広瀬村役場に奉職し、爾来51ヶ年の歳月を閲した「光陰矢の如し」わが半世紀の公僕としての勤めには、戦後の荒廃した農村再建運動から今日に至る歳月、正に一瞬の思いの中に限りなく多くの苦しみと喜び、そして夢を追うドラマがあった。

本稿は越後の小さな一農山村の物語ではないという共通の認識のなかで、反省の思いを込めて公僕半世紀の極めて限られた一部のメモである。

◆新農村建設

「お腹一杯めしを喰べたい」農村でありながら米がない、供出割当に喧嘩激論は当たり前という時代、村行政は農村再建の手法として新農村建設計画の策定を選んだ。開田100ヘクタール(当時の水田面積180ヘクタール)達成に向けて農林水産省の指定を戴き、当時としては正に「夢の創造プラン」ともいうべき計画が決定された。

新農村建設計画室長(兼経済課長)として具体的な手法を説明しても、村民は「本当かなあ・・・」「夢があってもできないよ」と厳しい言葉が返るなか、幸いにして国県当局の支援もあって、かんがい用水施設約5,000メートル余の建設等、言葉に絶する夢又夢と語られた建築事業が、開田約70ヘクタールと同時に完成したのが計画以来11ヶ年の歳月を経た61年であった。

「腹一杯めしを喰べられる村になった」のである。この事業完成は半世紀最高の思い出として私の脳裏に刻まれている。

◆村政の中核に。

一般職在職13ヶ年、62年1月助役を拝命したのが34歳、以来13ヶ年首長を補佐し、75年村長に当選した。しかし、選挙の結果は3票差、あってはならない選管事務の不手際から、1年版後の再選挙に訴え、76年7月当選今日に至っている。

◆公約実現5項目 

更なる夢の創造を、その第1が農地基盤整備の達成がある。農地が放棄されたら村落の灯は消えると「農地基盤整備促進条例」を制定し、あらゆる制度を駆使し、且つ、村単補助事業をもって100%完成に10ヶ年を要した。しかし、農家の負債は10アール年賦金8万7千円に達する地区もあり、この負債軽減のために平均年賦償還金10アール21,700円を上回る元本の総てを繰上償還を実行した。この施策が地方自治法に定める公益性に違反すると行政訴訟が提訴され、1、2審共勝訴判決で確定した。この判決後、国の農民債務支援の平準化施策が制度化した。

第2点が、全村域無雪道路の実現である。村民も今日では当然の行政サービスとして受け止めているが、道路整備そして庭先までの無雪道路の実現の公約は正に夢物語であった。今は首都圏への通勤も現実となった。

第3点は、全村域下水道の完成がある。

「下水道、夢みたいな」、計画を示したときの、村民の偽らざる声があった。幸い集落排水事業をもって80年事業着工、そして全村域を完成せしめたのが94年である。

「誇れるふるさと水清し」畑英次郎農林水産大臣の揮毫による記念碑が建立されている。

第4点は、年からの定住と半定住住宅の建設が実行に移されたこと。

「都市からの移住」「村に別荘」がこれ又「話題としては面白いがどうか・・・」という村民の声の多数であったが実現し、今日これが先例となって議員立法で法律が制定されたことを誇らしく思う。

第5点が、温泉の開発成功である。「この村に温泉の脈なし」諸々の地質調査の結論であったが、これを覆し2つの温泉に各2本のボーリングが共に成功し、次世代に限りなく偉大な財産として継承することができた。

「俺らが村の温泉」は、地域活性化に、村民の保健医療福祉に、筆舌に尽し得ない効果が派生している。

以上わが公僕半世紀の歩みに悔いなし、更なる夢の創造を思索する昨今である。