千葉県神崎町長 椿 等
私が小学校4年生の時開催された東京オリンピック。マラソン競技で裸足のアベベが優勝し、ゴール後も淡々と整理体操をしていた姿が印象的でした。
2位で戻ってきた日本の円谷幸吉選手が、イギリスのヒートリーにゴール直前で抜かれ銅メダルになりましたが、陸上で唯一のメダルであり、日本中が感動したのを覚えています。
4年後のオリンピックで大きな期待を背負った円谷幸吉選手は、3年後に遺書を残して自ら命を絶ちました。この時私は中学2年生でしたが、同じ長距離をやっていたせいか、より衝撃的なものに感じました。
この頃になると、だんだん練習の成果も出てくるようになり、3年生で迎えた地区大会では2千メートル走で7周目まではトップでしたが、力尽きて3位になってしまいました。
その後開催された、千葉県北部地域の「北総陸上大会」では、予選を全体2位の成績で通過しましたが、決勝では6位となり千葉県大会には行けませんでした。ああ、これで終わりかという寂しい気持ちと、悔しさから、進学しても陸上を続けたいという思いが募りました。
そして、高校生になり陸上部を見学した際、後にマラソンの増田明美選手を育てた名伯楽の滝田先生がおられ、即入部を決断しました。入部してから分かりましたが、ここは私のようにただ陸上が好きな素人の集まりではないというところでした。同級生といえども全国や県大会で優勝している、サラブレッド級の選手集団でした。そのため、ハードな練習により体調をくずし、1カ月以上の入院の後2年生の5月の連休直前には登校できるようになりましたが、結局、体調が戻らず2年生の秋には陸上部を辞めることになりました。
その後、大学の建築学科に進学することになりました。私は、医師から激しい運動は控えるよう言われていましたが、どうしても我慢できずに、体育会の日本拳法部という武道系の部に入りました。
これが私の性に合っていたらしく、無我夢中になって稽古に励みました。上下関係の厳しい部でしたが、本当に楽しく4年間を過ごすことができました。当時は関東で2段が25、6人、3段ともなると2、3人しかいませんでしたので、卒業するまでに黒帯を締められるかなと思っていましたが、何とか2段まで取ることができ、大変充実した大学生活を送りました。
卒業後、地元の建設会社に就職しました。公共施設の工事が多く、神崎町役場庁舎の新築工事の監督をすることになりましたが、数年後、役場で土木技術者がいないので来ないかという話があり、自分の作った役場に勤めることになりました。26歳のときです。それから34年間役場にお世話になり、町づくり課長や会計管理者を務め、60歳で定年を迎えました。
退職後、千葉県の土木事務所に勤めましたが、地元の有志から町議会選挙に出ないかと言われ、たった2カ月しか勤務せず選挙に臨むことになりました。
元役場職員で知名度はありませんので、厳しい戦いになると覚悟していましたが、結局無投票で初当選することができました。議会では今までいた執行部の向かい側に対峙して座るという事で何か落ち着かないものでした。
議員任期もあと2カ月となったころ、町長が病気で急逝され選挙となりました。また有志から推薦があり出馬することになりました。ベテラン議員2人との戦いですので、厳しい選挙戦になると思っていましたが、皆さんのご支持をいただいて当選することができました。
私のように、いつの間にか「なってしまった」という人間にとっては、選挙は必ずしも「なりたい者」がなれるわけではなく、何か目に見えない力が働いて決まってゆくのではないかと思えてしまいます。
現在2期目ですが、最初に出馬したときのスローガン「すべては町民のために、すべては町のために」を常にこころにとめ、何をやるときにも迷ったときは、この言葉を復唱し判断基準としています。