徳島県勝浦町長 野上 武典
この度、「随想」という形で、自らの半生を執筆する機会をいただいたので、どうして私が町長選挙に立候補する心境に至ったのか、直接の理由ではなく心の片隅に潜んでいた追憶のようなものを筆にしてみます(独りよがりな文章でご容赦ください)。
【少年時代】
少年時代は、あまり勉強や芸術的な才能が芽生えることもなく、専ら自然の中で遊び回っていた。
最も遊びのフィールドとしていたのが、勝浦川で、夏休みなどは日がな一日川遊びをしていた。
少年時代の勝浦町の印象は、成人した後も脳裏に刻まれ、学生時代を過ごした都会での生活に未練はなかった。
【大学生時代】
大学受験の1年目は理系の学部に挑戦したが、あえなく撃沈。
進路を文系に方針転換し、1年間予備校生活をした後、早稲田大学社会科学部に何とかしがみつき入学できた。
これからの楽しい大学生活を想い描きながら入学式に出席しようと大学周辺を物珍し気に歩いていたところ、「なー、ボートって興味ない?一遍漕いでみいひん」(後日、神戸出身の先輩と判明)と声を掛けられ、学部と名前を書かされたのが運の尽きであった。
それからの大学4年間は、社会科学部というより漕艇部卒業というほうが正しい。
漕艇部の練習は、授業がある平日は、大学で午後2時間ほどの陸上トレ、土、日曜日は埼玉県の戸田ボートコースの艇庫(合宿所)で、1日2、3回の乗艇練習、月曜日はオフ(休み)。
合宿に入れば、16畳ほどの部屋で、クルー8人が雑魚寝。夜中に鼾がうるさくてスリッパがそこかしこに散乱していた(朝目覚めると私の顔の周りにはいつも散らかっていた)。
朝6時起床(早い時は5時)、8時まで早朝練習し朝食、仮眠、10時過ぎ午前の練習、昼食、仮眠、午後3時から練習とミーティングの後、夕食、自由時間、就寝消灯は10時といった日課で、相撲取とよく似た合宿生活を送っていた(今の体形はこれが原因)。
授業がある時期にも合宿はあり、朝練を終えて、艇庫から大学に通い、授業に出席し、クルー全員が帰ってくる夕方5時過ぎから練習するボート漬けの生活であった。
1年を通しての合宿期間は、4月の中旬に開催される早慶レガッタに向けて2月から2カ月半、6月頃にある全日本軽量級選手権(現在はない)に1カ月、そして、8月最終の土日に開催される全日本大学選手権レガッタ等に向けて7月から2カ月間の合宿生活。
秋はレースがなくても1カ月ほどの合宿、冬休みは陸上トレを中心に年末までといったように、年間通じて6カ月を超える艇庫暮らしであった(私たちの年代の主将は4回生の時に下宿を引き払い家賃タダの艇庫生活をしていた)。
ボートから全く離れられるのは精々年2回、夏のレースが終わった後の1週間とお正月を挟んでの1週間が長期の休みで、正直レースの結果よりふるさと勝浦に帰省できるのを今か今かと心待ちにしていた。
練習はハードで過酷、自由な時間も少なく、(当時は)女っ気もない、決して楽しい学生生活とはいいがたい。
しかし、4年間「同じ釜の飯を食う」というように、半年以上寝食を共にしてきた仲間とともに、漕艇部活動を最後まで全うできたことは、後の人生で役に立つ何物にも代えがたい経験と達成感を得ることができた。
【町の職員となって】
昭和56年に役場に就職し、間もなく地域づくりが話題となり、いわゆる自ら考え自ら行う地域づくり「ふるさと創生」の事業が始まった。
若手の職員10人が政策集団?「ちえぶくろ」を結成し、当時は、誰かこの中から町の中心的役割を担う人財(罪?)が出たらいいと冗談まじりで話していた。
この「ちえぶくろ」で何か事興しをやろうと活動を始めたのが、100段の雛飾り元祖「ビッグひな祭り」である。
現在ではNPO法人に引き継がれ38回続き、全国的に知られるイベントになった。

【自己評価】
少年時代にふるさと勝浦から授かった印象、仲間と共に成し遂げる快感が忘れられず町長選挙への立候補を後押しした。
と述べるとクールだが、周りから「お前しかおらん」「最も適任者」という口車に、マンマと乗せられただけが立候補への決意でした。