長野県南相木村長 中島 則保
町村週報の随想欄は、毎回楽しみに読ませていただいております。令和七年四月一日現在、全国に九二六の町村が存在し、まさか私に原稿依頼の白羽の矢が立つとは思いもしておりませんでした。うれしくもあり、一大事でもございます。さてもさも、何を書こうか迷いに迷い、定番の村の紹介と悩める小さな村の姿など記していこうと思います。
町村週報第三三二六号のフォーラム欄「特集 未来へつなぐ森林整備等の取組」も合わせてご覧いただければ、さらに本村のことを分かっていただけると思います。
南相木村は、長野県の東南端、群馬県上野村に接し、東西二十km、南北五kmの細長い地形で、と言ってもピンとこない方は、日本航空一二三便が墜落した「御巣鷹の尾根」の長野県側に位置すると言った方が分かり易いでしょうか。
村の中央を信濃川の源流、千曲川の支流相木川に注ぐ南相木川が東から西に流れ、標高は九百mから二千m、面積はおおよそ六十六km²です。平坦地が少なく、総面積の約九割を山林が占め、川沿いに十の集落が点在する典型的な中山間地域の村です。
村の確かな歴史は、現在のところ縄文時代からとなっており、多くの縄文土器が出土しておりますが厳しい気象条件からか、弥生時代から古墳時代にかけての遺物はほとんど確認されず、九世紀末から十世紀にかけての集落跡が確認されております。十四世紀から村の名前の由来となる「相木氏」が、この地域を治め、その後、福井県に移封となりますが、現在もその家系の子孫の方はおられ、毎年ふるさと納税をしていただいております。江戸時代には天領となり、一八八九年(明治二十二年)市制・町村制の施行により南相木村が誕生しております。
明治から昭和の初期までの村民の生活は、少ない畑で麻の栽培、炭焼きや養蚕などで生計を立てていたようです。昭和四十年代後半から、この地域の気候や標高に適した高原野菜を中心とした農業が盛んとなり、水田も桑畑も野菜畑に代わり山林を切り開き農地造成も行われ白菜・レタス・花きの栽培が行われ現在に至っております。
昭和・平成の大合併を経ても単独での存続を選び、今日に至っております。村の人口はこの七月で九一七人、一番多かった終戦直後の二千五百人を超えていた時から比べると、四割以下の人口になってしまいました。これは、経済の発展とともに田舎から都市部へと人が移動したことが大きな要因であり、同時に少子高齢化も人口減に拍車をかけております。半世紀前の小学校・中学校の児童生徒数は、三百六十人を超えておりましたが、現在は百人に満たない人数となってしまいました。南相木村を将来にわたって存続するには、まず小学校の維持と児童数の確保が重要な課題です。豊かな自然と小規模校だからこそできる特色ある教育、特に大規模校では難しい一人ひとりに寄り添った教育方針を掲げ、令和二年度から「親子留学」という事業に取り組んでおります。その甲斐もあり、現在児童のおおよそ三分の一が親子留学のお子さんとなっております。大人たちの心配をよそに、こどもたちはすぐに仲良くなり、授業はもちろん学校行事や地区の児童会など元気いっぱいに活動しております。今後も自然豊かな田舎での暮らしがいかに素晴らしいものかをアピールしながら、親子留学をさらに発展させていきたいと考えております。
また、特色ある教育として南相木村では早くから英語教育へ取り組むとともに、村内に別荘を所有していた大学教授の紹介が縁となり、オーストラリア アデレード郊外にあるサンディークリーク小学校との交流を平成九年度から本格的に始め、小学校六年生を対象に現地でのホームステイを行いながら、異文化への理解と児童相互の交流、そして英語力の強化を図るためにコロナ禍を除いて、今年で二五回目を迎えました。最近では、親子二代にわたってオーストラリア研修を経験するこどもたちもおります。
これからも小さな村が、未来にわたって存続できるよう村づくりに励んでまいりたいと思います。