山梨県身延町長 望月 幹也
1959年(昭和34年)9月14日に山梨県に襲来し、明治40年以来の大水害となった台風7号。この傷跡や恐怖がさめない最中の9月26日、全国に甚大な被害をもたらした台風15号、いわゆる「伊勢湾台風」が襲来した。全国での死者・行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった。その大災害の2ヵ月前の7月、山間地の小さな農家で産婆さんの手により元気な産声が響き渡った。4人兄姉の末弟、私の誕生である。私の生家は先祖代々続く農家で、高祖父、曾祖父の代まではかなりの篤農家だったと聞く。菩提寺の「曹洞宗慈観寺」への貢献から「永代院号」を授かり、敷地内には立派な2連の土蔵が構えられていて、頑丈な造りから台風等の際には、近所の皆さんも避難所として利用していた。生後2ヵ月の私も母か祖母?に抱えられ避難したと物心がついたころに教えられた。そんな大災害の年に生を受けたこと、またそのころの望月家は貧困で祖母、母の日々の苦労を目の当たりにしてきたことから、幼少期から世の中のためになれるような大人になる、そして当時の隆盛な望月家まではいかないまでも、必ず御家再興を果たしたいと考えて育った。そんなことから昭和53年に姉が勝手に申し込んだ(事実です)山梨県庁の採用試験を受け、大学には進まずに翌54年4月に入庁した。入庁後はサッカー部やテニス部等に所属し、年齢の枠を超えた大勢の友人にも恵まれた。サッカー部では茨城県の鹿島スタジアムでの試合や山梨県と姉妹都市協定を締結している韓国忠清北道への遠征、テニス部では秋田県や新潟県等で開催された全国大会への遠征が思い出深い。一方、仕事での配属先は多分野に及んだ。中でも公共関係部局に延べ11年、課長も務め延べ10年在籍した市町村課が属する総務部に13年と長期間在籍した。変わり種としては、市町村課長の前に森林環境部の部付主幹を拝命し、環境整備事業団に派遣され、反対派グループへの対応や漏水検知システムの度重なる不具合、さらには継続営業すればするほど累積赤字が膨らむという負のスパイラルにあった「明野産業廃棄物最終処分場」の所長を2年間務めた。結果的に当時の「横内正明知事」の判断で閉鎖という決定が下され、その作業にも追われた慌ただしい2年間であった。技術職でなく一般行政事務職の私にとって、難しく大変な業務であったが、なかなか体験できることではなく、今では良い経験であったと思えている。2年経過し派遣が解かれ、市町村課長を拝命し無事本庁へ戻ることができて県職員として60歳の定年退職まで頑張る決意でいた矢先、予期せぬ誘いがあった。県庁OBでかつての私の上司で身延町長を務めていらっしゃった「望月仁司前町長」から、55歳の時に生まれ故郷である身延町副町長に招へいされた。しかし、これまで本県では本庁の課長職にある者が町村の副町村長に派遣された例はなく、私個人としても丁寧にお断りをし続けたが、相手も元県職員、攻め方を熟知しており、人事権を有する副知事と総務部長へ直訴し、結果として平成27年4月から2年間の約束で身延町副町長を拝命することとなった。私の主な役割は、もちろん町長の補佐役であるが、当時は全自治体において「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の策定が必須となっており、担当課の職員とともに時には夜中まで議論を交わし、計画期間5年間の平準的な事業と財源を割り振ったアクションプランまでを無事策定することができ、子育て支援、教育環境の充実等事業化も順調に進捗していた。平成28年度に入り、県庁に帰る日を指折り数えていたところ、またもや前町長から恐ろしいささやきが聞こえた。その年の秋に執行される町長選挙は私も認識していて、現職であった前町長が再選をめざすものとばかり決めつけていたら「副町長、今秋の町長選に俺は出馬しないから、お前が出ろよ」、県庁に帰る梯子はとうに外されていた。あれから9年、奇しくも現在3期目の町政を担わせていただいている。