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「東日本大震災津波で生かされた命を独創的で魅力的なまちづくりに」

印刷用ページを表示する 掲載日:2024年8月12日更新

平野 公三  大槌町長岩手県大槌町長​​ 平野 公三​​​

 大槌町は、岩手県沿岸中央部に位置する人口約1万人の町です。

 平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波により甚大な被害に遭い、県内最悪の人口の8%の1,286名の尊い命が奪われるとともに、町長をはじめ職員39名が犠牲となりました。あれから13年。震災当時、私は役場職員で定年退職まで後5年。築50年の庁舎2階にいた私は、庁舎前の広場に避難し、総務課主幹であったことから災害対策本部で情報収集にあたりました。地震発生から約30分後、先輩職員の「津波だ!」の大声の先には、電柱のトランスが見えなくなる程の10mを超すどす黒い壁が音もなく押し寄せていました。

 庁舎前の災害対策本部にいた三役はじめ本部職員等は、蜘蛛の子が散るようにあらゆる方向に逃げました。私は、役場屋上に駆け上がり、難を逃れました。しかし、屋上には、町長や上司である総務課長、幹部職員、部下職員等の姿がなく、何度も引いては押し寄せる大津波に、庁舎が破壊され、激流に流されるのではないかという不安を押し殺しながら、津波火災によるプロパンガスの爆発音や雪が舞う凍てつく中、無力感に苛まれながら一夜を職員14名と共に屋上で過ごしました。

 翌日、救助された自衛隊ヘリコプターから見た町は、壊滅でした。父親と妻の安否確認ができないまま、緊急・応急対応にあたることになりました。町内最大の避難所であった中央公民館の一室に災害対策本部を設け、副町長の下で被害情報収集、物資支援の受入れ、遺体の収容・火葬、行方不明者捜索対応等を県、自衛隊、消防、警察等と連携を図りながら、104名の職員の陣頭指揮を執ることになりました。国県等関係者の現地視察対応、新聞・テレビ等多数のマスコミへの定時・臨時の情報提供等、何もかも暗中模索の手探りの状況で心が折れそうになりながらも、生き残った、生かされた者としての「責任」を果たさなければとの思いと「このことが落ち着いたら退職しよう」との相反する思いを胸に。犠牲となった職員のご遺族が災害対策本部を訪れ、「何故亡くなったのか」と涙ながらに問われて、答えることができませんでした。生き残ったことへの後ろめたさや笑顔になることへの罪悪感は、その後何年か続くことになりました。ご遺族のその「問い」に不十分ながらも報告書「大槌町役場職員」で答えることができたのが、震災後10年過ぎのことでした。

 支援する側の役場職員の多くが被災者でした。大切な人を失い、自宅が流され、それでも被災した町民に安心や安全をしっかりと届けなければなりません。それが理屈なく突き付けられた公務でした。職務代理者の副町長は、同年6月20日で任期満了となり、規定により総務課長の私が、新しい町長が選ばれるまでの86日間職務代理者となりました。任期中、3つを決断し、実行しました。1つに町民不安につながらないよう模索した自衛隊撤収時期の決定、2つに8月11日月命日までに仮設住宅への移行と避難所の完全閉鎖、3つに住民基本台帳データ流失の中8月28日投票の町長選挙の実施。

 大震災津波は、多くの方々の人生を大きく変えました。私もその一人です。4年後、私は町長になりました。「このことが落ち着いたら退職しよう」の思いとは裏腹に、震災復旧・復興の舵取り役をしています。大槌町の復旧・復興は、延べ109の自治体・企業等、千人余りの県内外の長期派遣職員の力なくしては成り立ちませんでした。

 また、派遣をいただいた自治体の首長、派遣元の職員、そしてご家族のご理解とご協力も大槌町の復旧・復興の力であり、あらためて衷心より感謝申し上げます。

 大切な人、愛する人を一瞬にして失い絶望感や喪失感を二度と味わいたく無い、味わわせたくない。そのため、体験や教訓を次の世代に忘れずに伝え、ハード・ソフト両面から備える防災文化を醸成し、その礎の上に一次産業を核とした独創的で魅力的なまちづくりを目指したいと思います。