三重県川越町長 城田 政幸
川越町は、三重県の北部に位置し、東海道の宿場町、城下町として発展してきた「桑名市」、石油化学コンビナートや多様なモノづくり企業が集積する国内有数の産業都市「四日市市」などに隣接する町域が8.72㎢の県内で2番目に小さいまちです。
コンパクトなまちながら、充実した道路交通網により、県内外へのアクセスが良く、平成2年以降、若い世代の人口流入もあり、人口増加が続いています。
また、町内を流れる2本の二級河川は伊勢湾へと注ぎ、朝明川河口部には貴重な自然干潟の「高松海岸」が残るなど、都市化が進む中でも、豊かな自然環境にふれることができます。
当町は、昭和36年5月1日に町制を施行し、先人の方々が、日々努力を重ね、長い年月をかけて、歴史を創り、現在の川越町がありますが、町制施行の大きな要因となりましたのは、昭和34年に各地に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風の襲来です。死者・行方不明者は、174人にのぼり、当時の総人口8,007人のうち、7,322人が罹災しました。記録によりますと、台風により、河川堤防が延べ650m、海岸部は延べ2,500m決壊したとありますが、町内がほぼ全域海抜ゼロメートル地帯である当町にとって、堤防決壊がいかに危機的状況であったかは、想像に難くないと思います。当時、5歳だった私は、翌朝、町内の94%に及ぶ家屋が被害を受けた壊滅的な状況を目の当たりにし、間もなく65年が経ちますが、その光景を今でも鮮明に覚えています。
伊勢湾台風を教訓とし、復旧・復興を進める中で、二度とこのような被害を出さないように、海面埋立てを行い、防波堤の機能を兼ね備えた工業団地を造成する計画が持ち上がりました。当時の町の面積の4分の1を増やすというこの計画は、総事業費50億円と記録されていますが、当時、当町の年間予算が2億円であったことからも、基礎自治体が行う事業として、いかに壮大で、困難なプロジェクトだったかは想像を絶するものがあります。
昭和37年7月15日に「公有水面埋立免許申請」を行ってから、十余年を要したこの事業は、170万km²(約50万坪)の埋立地を完成させ、昭和48年5月29日に竣工認可を迎えました。
さらに驚くべきことは、町の財源を使わず、民間事業者が事業費の全額を立て替え、請け負っていることであり、官民連携の先駆けとも言える事業ではないでしょうか。
そのような町の歴史もあり、歴代の町長は、防災対策を最重要施策として掲げ、さまざまな取組を進めてきました。私自身も「子育て支援」をはじめ「学校教育」、「健康づくり」、「障害者・高齢者福祉」など各分野の重要施策を進める中でも、町民の皆さまの生命を守ることを最優先とし、まちの安全の要である「河川堤防・海岸堤防」の強化を実現し、避難所機能を有する水防倉庫の整備事業をはじめ、保育所に併設した津波避難施設、津波避難タワーの整備を進めてきました。多様な災害が頻発し、激甚化する現在、災害時に求められる「自助・共助」の力を高める取組を並行して進めてきましたが、コロナ禍によって活動機会は減少し、災害に備える意識高揚や行動を促す取組の停滞があったことは否めません。
その影響は、防災に限らず、地域活動にも及んでおり、住民同士の交流機会は減少し、さらには、ライフスタイルの多様化もあり、当たり前であった「ご近所づきあい」は、過去の原風景となりつつあります。
当町は、県内で最も高齢化率の低い自治体ですが、着実に進展する高齢社会において、住み慣れた地域で、住み続けることができるまちであるためには、住民同士が見守り、助け合い・支え合える「自助・共助」の地域づくりが必要であります。令和6年5月に新たにオープンしましたボランティア活動拠点施設「ささえあい」に多くの方が集い、交流し、地域づくりの自主的で、活発な活動が展開されることを期待しております。
町制を施行しました昭和36年5月1日に8,456人であった人口は、現在、15,650人となり、今後も増加傾向が続くと見込んでいます。当町の強みである「コンパクトさ」を活かし、町民から見える行政、町民が中心のまちづくりに取り組んでいます。
「笑顔がつながる みんなで支える まちづくり」を原点に、「安心して 笑顔で 住み続けられるまち」をめざしていきます。