奈良県町村会長・安堵町長 西本 安博
安堵町一帯は、奈良盆地の中でも最も低いところに位置し、河川のほとんどがこの付近で合流しています。
日本の始まりの地、奈良に情報と物を運んだのは大和川です。この情報と物は大和川の北に広がる安堵の地に暮らす人々を刺激し、江戸末期から明治・大正・昭和にかけて多くの偉人を輩出いたしました。
近代陶芸の巨匠 富本憲吉氏、その生涯の友であった今村荒男氏は結核予防のBCG接種を確立し、医学界に大きな功績を遺しました。
荒男の父、勤三は奈良県再設置の立役者であり政治家、実業家として活躍し、子孫も実業界に功績を残しています。
安堵町は飛鳥時代には、聖徳太子が飛鳥と斑鳩宮を政務のために行き来したとされる太子道が通っていました。
また、水路では、飛鳥と難波を結ぶ水上交通の要衡でありました。この水上交通は、のちに大きな流通へと発展し、明治の中頃まで町内の御幸ヶ瀬浜や隣接する板屋ヶ瀬浜は大変賑わっていました。
人の移動が水運から鉄道に変化する中、大正4年に安堵町内を横断する天理軽便鉄道が開業しました。翌年に現在の安堵交番付近に安堵駅が開業し、周辺には料理店や商店が並び、大いに賑わっていました。交通が充実していた安堵町は、人々の交流が盛んで、文化も発展し、著名な文化人や政治家を輩出しています。
時はさかのぼりますが、幕末の動乱が激しくなるにつれ、安堵町はいやおうなしにその渦中に引き込まれていきます。特に大きなかかわりがあったのは、天誅組の乱です。尊王攘夷運動が倒幕運動に移り換わる第一歩となったことだけは確かです。5年先には新しい世の中、明治維新を迎えます。
安堵町は、明治22年の町村施行以来、一度も市町村合併を行わず、昭和61年に安堵村から町制に移行し、現在に至ります。総面積4.31km²と全国で7番目に小さい自治体です。
昭和30年代までは純農村地帯でしたが、昭和44年の「西名阪道路」(当時の名称)の開通を契機に、近接する法隆寺ICやJR法隆寺駅などを利用できる京阪神大都市圏の交通至便な地域として、宅地開発や企業立地が進み、昭和46年からは、敷地3万坪の東洋最大規模と言われたカーペット工場も操業しています。
産業では、カーペット等の内装材と手帳等の紙製品、模型用動力機械の企業等が大規模な工場を有するほか、食品加工、綿加工などの中小企業が立地しています。農家の冬季副業として、かつて盛んであった和ろうそくの原料となるこの町の藺草からひかれた灯芯は灯明の芯となり、長らく日本の暮らしを支えてきました。
先にも述べましたが、奈良県や安堵町の近代化は、今村勤三とともに歩んだといっても差し支えないでしょう。
また勤三と勤三の四男でもある今村荒男の生家は現在、安堵町歴史民俗資料館として活用しています。
人間国宝の富本憲吉の生家はうぶすなの郷TOMIMOTOとして「陶芸の郷安堵」を後世に受け継いでいます。
中世の武家屋敷で、国の重要文化財「中家住宅」もあり、これらのさまざまな文化は、この地に歴史を刻んでまいりました。
このように多くの偉人を輩出し、歴史文化が豊かな町に生まれ育った私は、奈良市職員として38年間奉職の後に、平成22年に安堵町長に初当選して以来、現在4期目となります。
当初から、「小さくても キラリ光る 交流のまち あんど」を合言葉にまちづくりを進めてまいりました。日ごろから人が行きかう賑やかで元気な町であって欲しいという願いからであります。
そして、安堵町の現況ですが、水害から我々の生命と財産を守るための取組として、国土交通省直轄の遊水地事業と西名阪自動車道を活用した企業立地を関係機関と連携して、積極的に進めています。
人口減少社会の中でも、企業活動等による活力あふれるまちを目指し、また、偉人の志を大切にして今後のまちづくりに生かしていきたいと考えています。