長野県坂城町長 山村 弘
坂城町は戦国武将村上義清の地として有名ですが、最近の調査で福澤氏は、この村上氏から分派したのではないかという説が有力になっています。
福澤諭吉の先祖がいつの時代に大分の中津に移ったかは諸説があり不明ですが、福澤氏そのものが村上氏の分流であり、福澤氏の故地が坂城であったということなのです。
まず、歴史的経緯を述べると、信濃村上氏の祖とされてきた「源盛清」は、寛治8年(1094年)、白河上皇呪詛事件により信濃国村上郷(坂城町)へ配流されます。
この盛清の一族は、村上郷を本貫地として信濃村上氏の祖となり、中世には信濃国内で最も大きな勢力を有することとなりました。
村上氏は多くの一族を信濃国内に分派していますが、その中に15世紀から16世紀にかけて、村上氏の所領である広大な「塩田庄」(上田市)を支配した「福澤氏」がいました。
福澤氏は、村上郷の福澤を発祥とし、塩田庄の代官として、その力は信濃でも有数でした。
中世信濃の福澤氏といえば村上一族の福澤氏であることは明白です。(『諏訪御符礼之古書』や『蓮華定院文書』などの資料より)
この後、福澤氏は天文22年(1553年)8月の武田信玄の塩田城侵攻により敗れ、翌年3月にその健在が確認できるものの、それ以降、歴史上から消えてしまいます。
福澤諭吉は、自分の祖先について、自ら墓誌に、「福澤氏の先祖は信州福沢の人なり」 と記しています。
その根拠は、福澤諭吉の父 「百助」 が纏めた「福澤家系図」に拠っています。そして、この福澤家系図では、更に福澤氏は「小笠原氏」に仕えていたとも記しています。
小笠原氏は、中世、信濃守護職を代々勤めた名家で、武田信玄に信濃を追われた後、徳川家康に仕えたことで、再び信州の松本や飯田に本拠を置くこととなりました。
つまり、福澤氏は塩田城の敗戦後、その消息を絶つ中で、一族のいずれかの人物が、信濃国内で領主となった小笠原氏に仕えることとなり、その後、小笠原氏が幾つかの転封を経て、豊前中津に国替えになったことにより、福澤氏も中津へ移ってきたものと推測できるわけです。
信州には福澤の地名が坂城町の村上地区を含め長野県内で11ヶ所存在し、全国を見渡せば13県18ヶ所に及んでいますが、坂城町には福沢氏ゆかりの「福沢川」や、「福沢城跡」があり、福沢氏に関係のある「福泉寺」も残されています。
以上のように仮説ではありますが話を結びつけることで、最終的に福澤諭吉の先祖は中世、村上郷福澤に発祥し、塩田庄を支配していた村上氏一族の福沢氏に求めることが最も自然なのではないかと考えられるわけです。
平成27年に坂城町で「信州村上氏フォーラム」を開催しましたが、その際に慶應義塾福澤研究センターの、西澤直子教授にご講演をお願いいたしました。
テーマは「信州と福澤氏」で、その中で、「福澤氏のルーツに坂城町の可能性あり」とのお話をいただきました。
また、先日(令和5年8月26日)、松本で「オール信州三田会」が開催され、ご出席いただいた、伊藤公平慶應義塾大学塾長にも福澤氏のルーツは坂城町の可能性ありとお話をいたしました。
伊藤塾長にも大いに関心を持っていただきました。
これからも調査を進め、「福澤氏のルーツは坂城町」を確実なものにしたいと思っています。乞うご期待ください。