ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 > 「愛」が2つあるまち  ―愛甲郡愛川町―

「愛」が2つあるまち  ―愛甲郡愛川町―

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年8月7日更新

愛川町長神奈川県愛川町長  小野澤 豊​​

イントロダクション
愛川町は、神奈川県の県央北部に位置し、都心から50㎞圏内、総面積34・28㎢の人口4万人の町です。
西部には、丹沢の四季折々の色彩に富む山並みを背に、首都圏最大級の宮ケ瀬ダムをはじめ、広さ54 haの県立あいかわ公園や観光牧場が多くの人を呼び込み、町の中央には、清らかな中津川が流れ、数々の史実と哀歓を語り掛けています。
古に、武田と北条が激戦を繰り広げた「三増合戦場史跡」が、その時々に詩情をたたえ、南部の台地には、140社の企業が集まる県内有数の規模を誇る内陸工業団地が立地するなど、自然と産業・文化が調和した緑水環境都市となっています。
近年は、圏央道「相模原愛川インターチェンジ」の開通によって、内陸工業団地の様相も大きく変容し、製造業から物流の一大拠点として変わりつつあります。
また、中南米や東南アジアを中心に世界40か国を超える国々から、3、200人の外国人住民の皆さんとともに暮らす国際色豊かな町です。毎年夏には、異文化交流「野外フェスティバル」を開催するなど、グローバルな交流を深めています。


昭和初期の撚糸業を支える水車

▲昭和初期の撚糸業を支える水車

川に生き、川を愛してきた人たちのまち
昔から、中津川は人々の暮らしを支え、遊びと憩いの場でもありました。明治年代から昭和初期までは、上流の半原地区では水車の利用によって、中津川の奔流、落差という天恵の地勢と湿度を活用し、撚糸業は全盛期をもたらしました。
全国各地からその白い指に繁栄を託された女工さんたちが数多く集まったと聞いています。まさに、愛川の原点は、明治21年町村制公布の愛川村半原にあったといっても過言ではありません。また、中津川は昔から鮎漁が盛んで「鮎河」と呼ばれ親しまれ、この公布の時に村の名を鮎河からとることとなり、「あゆかわ」と呼んで「愛川」の文字に改めたといわれています。
移り行く時代の中で「糸のまち」で栄えた町も、今では撚糸業を生業にするところはほとんどなくなりましたが、宮ケ瀬ダムやあいかわ公園などを中心に「産業と観光が連携する拠点」として発展しています。これからも、大恩あるこの川が、とこしえに、いつまでも恵みを与えてくれることを祈るばかりです。この町は、川なしには、水なしには、その生々流転を語ることができないほど、川との深い「えにし」をもっています。


宮ケ瀬ダムナイト放流

▲宮ケ瀬ダムナイト放流

ガッツをもって
人生において何も事がないこと、無事であることが一番幸せなこと。無事息災こそが最大の幸福です。平穏と自由を失い、あれほど蟄居を余儀なくされることが、どんなに辛いかはコロナ感染症によって思い知らされました。
未曽有の事態に遭遇してから早3年半が過ぎ、5類に引き下げられたものの、まだまだ油断は大敵。老子の言葉に「禍は福の倚る所、福は禍の伏する所なり」とあります。禍の陰には幸せが寄り添っているし、幸せの陰には禍が潜んでいます。そして「禍福は糾える縄の如し」禍かなと思うとそれが福に転ずることがあるし、いいことばかり続いて幸せだと思っていると、突然とんでもない不幸が舞い込んだりします。
こうしたことは、誰でも日常の中で体験しますが、禍だけがいつまでも続くわけではないし、福だけが続くこともありません。禍の裏には福があり、福の裏には禍がある、そう思っていると苦しい時にも何とか希望をもつことができます。
人間生きていれば色んなことがあります。時には我慢をすることも腹の立つことも、涙が溢れてきそうな時もあります。そんな時には、大空を見上げ、ちっぽけなことにはくよくよせず、目標を見失わずに「万里一空」の精神でこの難しい時代を乗り越えていきたいと思っています。
首長の仕事は辛いことも沢山ありますが、何かを成し遂げた時の達成感は一入、感無量です。これからも先人たちから受け継いだこの自然豊かな美しい大地をしっかり守りながら、誰一人取り残さないエポックメイキングなまちづくりに全身全霊を傾け、築き上げていきたいと考えています。