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歴史が動いた地に想う

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年12月12日

西脇康世岐阜県関ケ原町長 西脇 康世
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関ケ原町は、岐阜県の西端にあり、滋賀県米原市と隣接しています。中部圏と近畿圏との境目、もっと大きく見れば関東と関西の境目に位置します。南北に連なる養老山脈と伊吹山地が大きな壁となり、この山々の狭間の峠道によって交流が行われ、昔から交通の要衝となっていました。

このような地形であるからこそ、ここを守れば敵は侵入できず、ここで待っていれば敵がやってくるということで、古くは壬申の乱における大海人皇子(天武天皇)軍の出陣の地となり、関ケ原合戦の決戦の地となったものです。徳川家康の東軍と石田三成の西軍が天下を二分して国内各地で戦いを繰り広げ、関ケ原町は、その決戦が行われたことで「天下分け目の関ケ原」と戦国時代の終わりを告げる戦いの地として知られています。

関ケ原合戦を簡単に紹介いたします。慶長5(1600)年、徳川家康を大将としていた会津攻めの進撃中、石田三成らが挙兵しました。小山評定のあと、長らく江戸に留まっていた徳川家康が大垣に到着すると、大垣城攻めをせず、石田三成の居城である佐和山城を攻めるらしいという情報を聞いた西軍は、夜半に関ケ原に向けて移動し布陣。これを受けて、東軍も関ケ原に向けて出陣しました。霧が立ちこめる中、井伊直政隊の発砲により関ケ原合戦が開戦しました。最初は、西軍優位に攻防が続きましたが、小早川秀秋の寝返りにより、攻撃を受けた大谷吉継軍が敗走したのを機に西軍は総崩れとなり、約6時間の戦いは東軍の勝利で幕を下ろした、というものです。

関ケ原合戦やこの戦いに参戦した武将を題材にさまざまな観点から取り上げられていることから、関心を持っている人が多くいると思います。昨今の歴史ブームもあり、関ケ原合戦は、歴史学者らによって検証が行われ、さまざまな新説が出てきています。戦いは422年も前のことであり、戦いの詳細を記した記録もないことから、残存する手紙や書き付け等の僅かな資料をもとに研究が進められているようです。

例えば、家康などの書状に「濃州山中」と記されていることから、戦いの場所は関ケ原ではなく山中村だとする説があります。関ケ原は周囲を山に囲まれた盆地であり、西軍の各隊は周囲の山に布陣していることから「山の中」と解釈すればよいとする通説に対し、場所は山中村(関ケ原の西方にある山中地区)が主戦場になったと解すべきだというものです。この他にも、「小早川は関ケ原以前に東軍へ寝返っており、戦いの最中に寝返りを決断したのではない。」、「戦いは6時間もかからず、あっという間に終わった。」等々新たな説が唱えられています。また、実証実験などを行い、東軍が小早川に対して寝返りを催促した所謂「問鉄砲」はなかったのではないかという説が有力になってくるなど、見直されようとしている定説もあります。最近、NHKの番組で、赤色立体地図による地形調査から「玉城」という陣城が確認され、西軍が豊臣秀頼をここに迎えようとしていたという説が出て、大きな関心を呼んでいます。これらについても、これから研究が進められることを期待しています。

こういった新説として、『新解釈関ヶ原合戦の真実』や『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』などの書籍が出る一方、これらの説を検証する『論争関ヶ原合戦』という書籍も出版されるなど大いに賑わっています。関ケ原合戦の真実の状況を知りたいという思いもあり、このような論争は大いにやっていただければいいと思っていますし、これらの新説の中から真実とされるものが出てくることも期待しています。反面、これまでの通説が根本から覆るような新説が出てこないようにと願っているのも偽らざるところです。

関ケ原合戦は、東西4㎞南北2㎞の狭い盆地の中で決戦が繰り広げられました。一昨年開館した「岐阜関ケ原古戦場記念館」は、各武将の陣地の配置や距離感が一望のもとに判る展望室や、映像、資料展示、体験コーナーなど好評を得ています。令和5年のNHK大河ドラマは「どうする家康」です。終盤には関ケ原合戦に関わるシーンも出てくると思われます。参戦した武将たちが何を想い、何を求めて戦ったか。戦国ロマン香る古戦場で、武将たちが見ていた景色に思いを馳せてみませんか。