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東北に春を告げるまち

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年11月28日

遠藤智福島県町村会長・広野町長 遠藤  智
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東日本大震災、原子力災害から11年の時を刻み、福島の復興・再生は、着実に復興の歩みを進めておりますが、復興は未だ道半ば、厳しい状況にあり、課題が山積しております。これまで、国内、国際社会より多くの温かいご支援、ご厚情を賜り、心より感謝、御礼申し上げます。広野町は、全町避難を余儀なくされてから、国内はもとより国外から多くのご支援・ご厚情をいただき、町民一人ひとりが納得して帰還する「幸せな帰町」を捉え、町民の帰還に向けて、除染による環境回復、放射線による健康不安の払拭、インフラの復旧、商業施設の整備、医療福祉施設の整備、広野こども園、ふたば未来学園中高一貫校をはじめとする教育環境の体制整備等、生活環境を一つひとつ整え、9割の帰還を成し遂げて、廃炉・復興関係事業者や他市町村からの避難者を含めた約6、000人の“共生のまちづくり”に取り組んでまいる所存です。

町は、東京都心から238㎞、仙台市から128㎞、福島県双葉郡の最南端に位置し、東西13㎞、南北7㎞、58・69㎡の面積で、東に太平洋を臨み、西に阿武隈山系、いわき市と隣接しています。阿武隈山系からなる浅見川をはじめ、北迫川、折木川の3本の川、二ツ沼や西の沢溜池等の池沼、源頼義とその長子義家の伝説がある五社山、城跡が残る高倉山等、四季折々に美しく彩られる豊かな自然を有していることに加え、全国でもミカンが栽培されている最北地の1つであることなどから「東北に春を告げるまち」のキャッチフレーズで知られる温暖な町であります。近年は、無農薬で皮まで食べられる国産バナナ(通称:綺麗)やコーヒー等の栽培に取り組んでいます。

明治22年に町村制施行に伴い、夕筋村、折木村、上浅見川村、下浅見川村、上北迫村、下北迫村の6カ村が合併し、人口3、077人の広野村が誕生し、昭和15年の町制施行で人口4、857人の広野町となりました。令和2年度に町制施行80周年を迎えたところです。広野町とエネルギーとの関わりは、明治初期からの常磐炭田採掘地に始まり、昭和30年代まで常磐炭田の北端、人口約8、000人の炭鉱の町として栄えました。その後、石炭産業は衰退しましたが、町の再生をかけた長期的な町勢振興策として企業誘致に取り組み、昭和46年に火力発電所の誘致を決定し、昭和55年に東京電力広野火力発電所1号機が営業運転を開始しました。その後、広野火力発電所は6号機まで増設され、令和3年11月には二酸化炭素排出量の少ない高効率な石炭ガス化複合発電施設(IGCC)が運転を開始し、今後、世界の潮流からの新エネルギー社会の創出へ取り組んでまいります。

令和3年3月、東京五輪聖火リレーのグランドスタートした「Jヴィレッジ」は、平成9年に日本初のサッカー・ナショナルトレーニングセンターとして整備され、サッカー日本代表合宿等に利用されるなど、「サッカーの聖地」として復興・創生へ大きな役割を果たしていきます。〝被災地のフロントランナー〟から〝創生のパイオニア〟の責務を果たすべく、火力発電所を有する町として、脱炭素・持続可能な社会を念頭とした新たな時代の防災に強い〝共生のまちづくり”に取り組んでいます。

復興に取り組む中で念頭したことは、1つの自治体が単独で復興することではなく、被災地の福島全体が復興し帰還できる環境を先駆けて創っていくという強い信念です。復興とは、ふる里への人々の願いに向かって努力し、自らの真心を尽くすことにより被災地に希望の未来が築かれていくのだと思います。どんなに困難な状況にあっても、信念を持ち、難題に一つひとつ対処し、いただいたご縁を大切にして歩んでいけば、必ず光と希望は見えてきます。

震災から第二期復興創生期を迎え、福島の復興に向けて、地域連携とリスペクトの念を刻み、私たちは、これまでご支援を賜りました皆さまへ感謝の念を持ち、福島復興を成し遂げる決意を持って取り組んでまいります。今後とも、ご指導ご支援を賜りますようお願い申し上げます。