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私の故郷

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年10月3日

常石博髙高知県田野町長 常石  博髙​​

 

県都高知市から東へ約55㎞。二級河川奈半利川西岸河口に位置し、南は土佐湾に面し、東西2・2㎞、南北4㎞、総面積は6・53㎢。四国で1番小さな田園の町が田野町です。

気候は温暖で、ほとんど降雪はなく、澄んだ空と緑の自然環境に恵まれています。

田野町は藩政時代より田野五人衆「米屋、福吉屋、蔦屋、常盤屋、虎屋」と呼ばれる藩の御用商人が、奥地の山林資源の開発などで富を持ち、町に繁栄をもたらしました。また、幕末には安芸郡奉行所が設置されるとともに、藩校田野学館が併設されて、安芸郡における政治・経済・文化の中心地として栄えました。また、山と川と海の距離が近く、自然が豊かです。歴史と自然に囲まれた暮らしのなかで、人々は優しさや誇りを育んできました。

ライオン宰相「濱口雄幸」、幕末の志士「清岡道之助」等、偉人たちの史跡や文化が息づく町、山・川・海など自然が豊かな町、四国一小さい田野町は、暮らしている人たちの温かさあふれる魅力あるまちです。

表題にある私の故郷について紹介させて頂きます。「大野」という地域です。標高が40mから78・3mほどあり、大野台地と呼ばれ、南に土佐湾を望みます。北から南へ15度から30度傾斜し、今にも海に落ちこまんばかりの地形であり、太平洋の大海原が一望できる、絶景ロケーションが魅力の地域です。

今ではこのようにご紹介ができますが、私の青年時代までは、台地ゆえの苦悩も多くありました。農業では、かんがい用水がないことから農作物も昔ながらの甘藷、麦、大根を雑然と思いのままに栽培するいわば自然まかせと言える農耕を続けていました。また地域内の井戸水は晴れの天気が続けばたちまち枯渇し、主婦は山裾の谷水を担い上げて飲料水にするという生活上の苦難もありました。逆に雨の多い年や梅雨時には畔越しの水害に悩まなければなりませんでした。このような生活上、営農上の苦悩に耐えながら、日夜眼下を流れる奈半利川を眺めなければならない農民からは「水は低きにつく」自然の成り行きに逆らって「水を高い台地に引上げる」工夫はないものかという声が高まって来たのです。

この生きなければならない農民の熱い思いが大野土地改良区設立となり、取水計画では奈半利川から県営で施工することが決まりました。昭和31年着手し、63・5mをポンプで揚水して4、241mの幹線用水路を整備し、昭和41年度に完成。また、団体営事業として、ほ場整備を昭和38年度に着手し、約70 haを水田化するとともに、用水路延長14、424m、排水路延長9、899m、農道延長16、113mが大野台地を縦横に走り、昭和44年度に完成しました。

昔から「嫁にやるなら大野へやるな、水と薪に苦労する。」と言われ、町民の間で、大野台地は豊かに生活することのできない土地の代名詞でさえありました。しかし、大野は豊かな土地に生まれ変わったのであります。現在でも、水稲45 ha、オクラ3ha、ハウス園芸の茄子等22 ha、さらにハウス園芸等の発展も期待できる優良農地ばかりであることは、本当に喜ばしいことです。最近では少子化でありながら、若者の定住も徐々に増え、子どもたちの明るい声に元気をもらいながら地域住民同士の睦が育まれています。

大野台地の土地改良を成し遂げた人々が、ここに生活し、そして生まれ育つ人々にこれからの道を教える縁がある。改めてその大きな幸せを痛感します。

現在、高知県では、地域が主体となり支え合い助け合う仕組みや、地域でお金が回る仕組みづくり等を推進する、集落活動センターの立ち上げに力を入れています。この大野台地でも、隣町である安田町と連携し、県内では初めて複数の自治体をまたがる「集落活動センター大野台地」を県下59番目として立ち上げ、さまざまな活動が始まりました。

苦悩から発展へ、私の故郷「大野」の今後を楽しみに見守っていきたいと思います。