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人生は不思議なもの

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年3月14日

沖縄県多良間村長沖縄県多良間村長 伊良皆 光夫​​

多良間村は、沖縄県宮古島から南西へ約60㎞、宮古島と石垣島のほぼ中間に位置し、多良間島と水納島の二島からなる村です。私が生まれた昭和30年頃の人口は約3、000名ですが、現在は1、100名弱となり、過疎化が進んでいます。村の子ども達は、中学校を卒業すると高校進学のため、「15の島立ち」として島外へと島を出ていきます。

私は10人兄弟姉妹の4番目の三男として生まれ、学校から帰ると家畜の草刈りや畑仕事、魚獲りなどに精を出し、自然児として育ちました。島に電気が灯ったのが小学校3年生の頃で、水道の給水ができたのが日本復帰後の昭和48年です。中学校を卒業すると例にもれず、宮古島の高校、沖縄本島の短大部へと進み学生時代を過ごしました。短大在学中に話が持ち上がったのが、多良間島のCTS(石油備蓄基地)建設問題であります。

沖縄には昭和47年の日本復帰直前から、沖縄本島北部の離島でCTS建設が進められていました。建設工事の請負や開業後の雇用促進による経済効果に期待を寄せた誘致であったのです。しかし、CTS建造後の雇用効果は予想を下回り、また、島内の耕作地は激減し、農業振興の妨げとなりました。さらに、海中道路の建設により島周辺の海域に赤土流出。潮流変化に伴い漁業に深刻な打撃を与えました。追い打ちをかけるように、原油流出事故の発生、公害問題の深刻化等でCTS反対運動が激化します。

そのような最中、故郷多良間島にCTS建設が持ち上がり、村民は賛否両論、揺れていました。行政は態度をはっきりせず、うやむやにし、議会も態度を表明せず、なかには、誘致に向けて積極的に活動している議員がいると囁かれていました。在学中の私は村の将来、公害問題等含め敏感に反応し、仲間達と議論しました。北部の離島に足を運びCTSのタンクを眺めましたが、外から眺めるだけでは何も解りませんでした。ただ、このような巨大なタンクが故郷多良間島の広い面積に設置されたら、島の将来はどうなるのか憂慮しました。

私は三男坊であることから、卒業後は島に戻るという考えはありませんでした。しかし、卒業を目前にして、故郷のCTS問題が気にかかり、村民に正しい情報は伝わっているだろうか。経済効果と雇用拡大を宣伝しているが、これまでの現状から、その効果はほぼ期待できないことは知られているだろうか、など頭から離れませんでした。

短大卒業と同時に、仲間達の激励を受けて故郷に戻ったのです。島に戻ってからは青年会活動を続けながら、CTS反射運動を展開しました。島の大先輩を代表とした「多良間島を守る会」を結成。沖縄本島の仲間や郷友会とも連携を図り、積極的な活動を行いました。当時の村長と議長に出席をお願いし、「村民大会」を開催。「村民大会」は2日間にわたって続けられました。とうとう誘致派は大きな動きもなくしぼんでいきました。

人生は不思議なもの、もしあの時、故郷多良間島にCTS問題が起きなければ、私は島には戻らなかっただろう。今頃どこで何をしていたのか。人生とは、本当に摩詞不思議なもの。行政を進めていくうえで、常に物事や政策を判断する基準を持ち合わせていなければなりません。それはいろいろな形で培われていると思います。私の場合は育った環境です。10人兄弟姉妹大家族の中の暮らし、物の乏しい時代を生きてきた経験、一言で言えば「貧しさ」です。多くの村民は、貧しさと苦しい体験をしながら、それを乗り越えてきました。政治は弱い立場のためにある。そんな弱い立場の方々に対し何ができるか。政治・行政の重要ポイントであります。光の当たらないところにも、大きな気配りで光の当たる、苦しくても頑張ってきた村民が幸せを感じてくれるような、そんな行政運営を心がけています。