ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 > 「年中みかんのとれるまち」御浜町

「年中みかんのとれるまち」御浜町

印刷用ページを表示する 掲載日:2022年3月7日

三重県御浜町長三重県御浜町長 大畑 覚​​

私が、御浜町役場に奉職した翌年の昭和50年に、御浜地区国営農地開発事業による造成工事が始まった。

最初に完成した中立団地、約60 haの広大で緩やかな傾斜地に植栽された甘夏の苗木の整然とした景観は、我が町の誇りと思えるほど素晴らしく壮観で、大いに感動したことを記憶している。

以降、約17年の歳月をかけて、紀宝町の1団地を含む13団地、総植栽面積330haの柑橘園地が完成した。

造成が始まった当時の御浜みかんは、早生温州みかんの「青切りみかん」が主流で、中京市場を中心に、他産地の温州みかんの出荷の最盛期までに売り抜ける販売戦略をとっていたが、温州みかんが生産過剰となっていたため、造成した園地には温州みかんの植栽が認められず、すべての団地で中晩柑類を植栽した。

その中の神木団地他2団地の一部で、5~6月が収穫期のサマーフレッシュという御浜町にしかない品種を選定、植栽したことで、周年収穫につながることになったのである。

後に、御浜町のキャッチフレーズとなった「年中みかんのとれるまち」は、昭和57年9月の町創立20周年を記念して発刊された御浜町誌の宇井泰彦町長の挨拶の言葉の中に記述されているのが、最初であると思われる。

その御浜町誌によると、紀南地域がみかんの産地となったのは、大正11年頃、それまで大きな面積を占めていた桑園から柑橘への転換が始まったのがきっかけとされている。

私がみかんの係を担当していた当時は、各団地に植栽する品種の選考や苗木の確保をはじめ、入植農家の営農計画や資金融資申請書類の作成支援等を行う傍ら、「みかん娘コンテスト」を開催して、初代みかん娘によるPR活動を行ったり、パーク七里御浜「モールピネ」の3階に、「100%ジュースの搾汁工場」を設置し、みかんの持ち込みによるジュースの搾汁を行ったり、「マスコットキャラクター」の商標登録を行い、資材のワンポイントマークに使用したりしていて、忙しくとも、充実した毎日を楽しんでいたことが懐かしく思い出される。

あれから約30年、御浜町で栽培されている主な品種を収穫月別に挙げると、7月極早生温州のハウスみかん、8月早生温州のハウスみかん、9月極早生温州味一、10月極早生温州崎久保、11月早生温州、12月晩生温州、1月ポンカン、伊予柑、2月不知火、麗紅、3月せとか、八朔、4月カラ、三宝柑、5月甘夏、セミノール、6月サマーフレッシュとつながり、周年収穫を保っている。その他にも、収穫期間の長いマイヤーレモン等が栽培されている。

そうした中、現在の御浜みかんの主流は、極早生温州みえ紀南1号で、御浜町にある紀南果樹研究室で開発された品種であり、通称、味一と呼び、秀品は、衆議院議員鈴木英敬氏が知事時代に命名した「みえの一番星」というブランド名で、9月初旬に露地栽培のトップを切って出荷される。

また、極早生温州崎久保は、私の家の近所の農家、崎久保春男氏の園地で発見された品種で、今では味一の後に続く品種となっているが、昭和の後期に早期出荷の救世主として出現し、平成の時代の御浜の産地を支えてくれた品種である。

これからの御浜の産地は、早期出荷と同時に、「うまいみかんを高く売る」ための高品質果実の生産も重要と考え、数年前から補助制度を創設し、マルチ栽培を強く奨励していて、すでに100haを超える園地で取り組んでいる。

一方で、近年、近畿自動車道紀勢線の整備が進み、熊野市まで延伸されたことから、トラック運送においては、時間短縮やドライバーの負担軽減、積み荷の傷みの解消等、運送環境が大幅に改善され、有利販売につながっていて、感謝に堪えない。

御浜みかんは、三重南紀みかんの商品名で販売していて、極早生温州の販売単価は日本一を維持しているが、産地を維持していくためには、生産量の回復が急務で、次世代を担う若者の存在が不可欠である。

そして、これからも、「年中みかんのとれるまち」であり続けることが、御浜町のまちづくりの原点であると思っている。