岐阜県御嵩町長 渡邊 公夫
私自身の若い頃、「御嵩ってどんなところ」と問われると「何もないのが特徴の町」と答えていました。今の立場になり、如何に自分が生まれ育った「町」について無知であったかと思うと恥ずかしい限りです。人間は悪いところに視線が向きがちで、良いところを見逃してしまいます。逆に言えば、良いところは馴染みすぎて、当然あるものとして脳の中で処理してしまっています。特に御嵩町は亜炭鉱の空洞という負の遺産を抱え、近代の歴史を刻んできており、それに勝る良いところなどないとネガティブに考えていたのは事実です。しかし、戦中戦後、東海地方のエネルギーを支えてきたのも事実で、特に、落盤の原因となっている乱掘は、戦後の経済復興の掛け声とともに行われました。御嵩の先人たちは、負の遺産を後悔するとともに、自慢と言える財産を言い伝えることもしなくなったように思います。直接、間接を問わず「利益を得ていた」という後ろめたさを感じていたのかもしれません。時代が過ぎ、世代が移り変わると負の遺産が負の遺産でしかなくなりました。特に東日本大震災を目の当たりにした子育て世代の方々から、亜炭廃坑を何とかしてほしいとの要望が直接届くようになりました。かねてから隠すことはしない方針にしたことで、知事にも知っていただきたいと実際の落盤を見ていただきました。絶対に開かないと思っていた扉をこじ開けてしまわれた知事には、驚きと感謝しかありません。亜炭廃坑の地下充填が可能となり、徐々に進捗していることで、逆に御嵩の良いところに光が当たるようになってきました。その最たるものが御嵩駅前にある願興寺です。現在、組み立て直しをしている本堂は、国の重要文化財です。とは言え、その造りや細工はとても荒々しく名人宮大工の技ではなく、一般の建物を手掛けた大工たちのようです。甲斐武田軍の焼き討ちにあい、焼失した落胆を乗り越え、再建に動き出したパワーと旧可児郡から木材を集め、浄財を募り、労力を提供した民たちの底力は、御嵩のDNAのような気がします。その民たちが、命がけで本堂から持ち出すことで焼失の難を逃れた仏像24体も、国の重要文化財として本堂西の霊宝殿に納められています。因みに重文24体、その数は岐阜県一を誇ります。こうした身近にあるものが実は、自慢できるものであることに気付かなければ、住民ですら知らない存在となってしまっています。組み立て直しを機に、存在すら意識していなかった町民に加えて、仏像や古の建
築物の存在を町外の方々にも紹介していきたいと考えています。「何もない町」から「眠る宝物が溢れる町」と発信し続けたいと思っています。
新型コロナウイルス感染症は、私たちの人との関わりに制約を持ち込んでしまいました。各種のイベント、集会、会議等、人が集まる機会を奪いました。観光はその代表例の一つです。私も「どうも日本人の観光と外国人の観光とは違うようだ」と気づきはじめた頃、外国人観光客は京都と富士山だとの既成概念を覆す光景を目の当たりにしました。御嵩駅前で15人程の欧米から来たと思われる外国人の団体が地図看板に見入っている光景です。所謂インバウンド、ツアー名は「Walk Japan」の木曽路(中山道)を歩く旅だそうです。京、三条大橋から江戸、日本橋までを鉄道、バス、そして徒歩で挑むツアーです。かなり高額な旅行費であるものの、高い人気のツアーとなっています。当初は週に1団体のみでしたが、週に2団体となって順調に推移していました。京都から関ケ原、そして、御嶽宿から細久手宿までは徒歩でと、その後も多くの徒歩での移動をし、終点日本橋に到着するとツアー客が涙を流しながら「ハグ」をし合うそうです。御嵩の田圃の畦道に腰を下ろし、景色に感動しながら、移動の途中で買い求めた、思い思いのランチも大きな楽しみのひとつだそうです。また、畳の上に敷かれた布団で寝るのは、必須だそうです。このツアーも順調に実施されていたものの、コロナ禍で途絶えてしまいました。「気づく」とは「築く」ことにもつながります。日頃、当たり前だと思って気にも掛けなかったことで、行政の中にも変化させるべきことが多くあることに気づく日々を過ごしています。