ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 > わが人生に感謝

わが人生に感謝

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年9月13日

小菅村長山梨県町村会長・小菅村長 舩木 直美​​

昭和32年7月に小菅村の小さな農家の長男として生まれ、曾祖母を筆頭に、病気療養中の祖父母、両親という家族構成の中で幼少期を過ごしました。

その頃家は養蚕や炭焼き、ワサビ栽培などで生計を立てていました。小学生の頃の私は、養蚕の時期になると、桑の葉取りや蚕拾いの手伝いを行いましたが、何よりも思い出に残っているのは、夜、蚕がざわざわと桑の葉を食べる音が怖くてなかなか眠れなかったことです。

また、中学生になると休みの日には、持山に父母と弟と4人で行き、杉やヒノキの枝打ちや下草刈を手伝いました。大変な仕事から早く解放されたくて、作業範囲を父に決めてもらい休む暇も惜しんで終わらせると、まだ帰るには早いからと結局日没まで手伝うことになりました。父には不満もぶつけられず嫌々作業を続けたことで山を嫌いになりかけたある日、父に言われ枝打ちをした個所を振り返ってみると、今まで鬱蒼としていた山が一変し、眼前に広がるすがすがしい光景に達成感と大きな感動を覚えました。

中学を卒業すると、高校へは家から通学できず16歳にして下宿生活を余儀なくされ、最初はホームシックになり涙することもありました。しかし、新しい生活に慣れると帰省するのも忘れ、さまざまな体験に夢中になり高校生活を謳歌していました。しかしその裏では、貧しい家庭で仕送りが大変だったろうに、こんな私のために何も言わず仕送りをしてくれた両親への感謝の気持ちを忘れていたことが恥ずかしく思い出されます。

時は流れ、昭和52年4月に小菅村役場に採用され教育委員会に配属となりました。当時の教育委員会は、教育長は非常勤、次長は病気で休みがち、先輩はスクールバスの運転で席を外していることが多い中、1年生の私に与えられた最初の仕事が「中央公民館建設」でした。これは、村にとっても大きな公共事業で右も左も分からない私にとってはいきなりの大仕事で、補助金申請?実績報告?何もかも1から勉強でした。そして、大変な苦労の中、諸先輩方のご指導・ご協力をいただきながら、何とか完成までこぎつけることができましたが、苦い思い出の公務員生活のスタートとなりました。

私の人生の転機となったのは、平成7年に日本の過疎地域リーダーを育成する「山間過疎・地域リーダー国際研究事業」制度への参加で、全国北は北海道から南は九州の研修生8名や塾長の東京大学名誉教授大森彌先生、法政大学名誉教授岡㟢昌之先生との出会いでした。この研修は、1週間の国内での研修後、アメリカオレゴン班とスイス山岳支援センター班に分かれ、約10日間、国際的な過疎地域の現状や政策を学ばせていただきました。私はスイス班を希望し景観を維持していくための政策の1つである農家への直接支援制度の仕組作りや、観光政策への国・州・自治体の役割等を学びました。また、自主自立を目指し奮闘している小さな自治体の視察も行いました。

翌年、今度はオレゴン州への研修の話がありこんな素晴らしい研修にぜひ参加したいと自ら休暇を取り参加させていただきました。オレゴンでは、ヒバート教授にご案内していただき、州へ自治体が地域の実情をもとに事業計画を行い事業化できる仕組みやオレゴン大学の地域連携について学びました。この経験こそが、今日の私の原点となっています。

そして「人生は1度きり」との思いで、平成22年12月長年お世話になった小菅村役場を早期退職しました。

農業やアルバイトで過ごす中、何か大きなことにチャレンジしたい気持ちが芽生え、村長選へ立候補し幸運にも当選。平成24年6月から村長としての務めが始まり、現在3期目に至っています。

この間多くの皆様との出会があり多くのことを学ばせていただき、政策にも反映できましたことに感謝しています。「60歳を過ぎたら地域へ恩返し」をモットーに任期を全うし、次世代へつなぐ一助となればと思っています。今、改めてこの「随想」を執筆するに当たり幼少期からのことを思い出すきっかけをいただきましたことを感謝いたします。