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私の町政運営の原点

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年7月5日

長崎県小値賀町長長崎県小値賀町長 西村 久之​​

私が生まれて間もないころ、我が西村家では先祖の法事が行われていたそうです。親戚中が集まり、精進料理を作り、住職を囲んで先祖の供養が営まれていたその傍らに、私は小さな布団ですやすやと眠っていたそうです。父親は、既に私の名前を決めていたそうですが、住職は、その事を知らなかったのか、突然この子の名前は「久之」という名前にしたらどうかと父親に話したそうです。父親が、何故ですかと問うたところ、住職は、ここの西村家には「久之」という名前が幸運を呼び込むであろうと、また、この子は「人の上に立つ」と仰ったと聞いております。

私は、農家の次男坊で、幼いころからよく家の手伝いをさせられました。ほかの農家の子どもたちと同様に、農繁期の「田植え・麦刈り・稲刈り」などは学校を休んで加勢しておりました。また、すってくろ(やんちゃ)だった私は、いつも野山を駆けまわり、海水浴や魚釣りなどをして過ごしており、生傷が絶えない子どもでした。性格は、自分で言うのもなんですが、明るく剽軽でムードメーカー的な存在、また、おっちょこちょいでよく失敗もしますが、究極の負けず嫌いです。体は大きくはありませんが、体力には自信がありました。ソフトボール・野球・相撲・陸上競技など何でもやりましたが、特に野球については五十歳過ぎまで続けることができました。

さて、私が現在の職業「町長」を目指したのは、中学生のころに、周りの大人達から名前の由来をよく聞かされたことがきっかけだったと思います。そして、いつの間にか敷設されているレールの上を走ってきたような気がしております。当時は、大学への進学、さらに会社員として社会勉強をし、色んな経験を積んでから地元「小値賀町」に帰ろうと考えておりましたが、父親が病に倒れたことで断念し、高等学校を卒業して、直ちに地元で役場職員として働くことを決心しました。定年退職までの間、素晴らしい同僚「先輩・後輩」に恵まれ、貴重な経験をさせていただきました。このことは、私の一生の宝物でございます。

職員であった期間において、特に印象に残った歴代町長の教えは、次のとおりです。

故「新田正義町長」からは、【同じ失敗を繰り返してはならない。常に町民の立場になって仕事をしなさい。】という教えをいただきました。

故「津田育佑町長」からは、【難しいかもしれないが、辛い時・苦しい時は笑顔で笑いなさい。】という教えをいただきました。

故「近藤 功町長」からは、【自分で見れない背中を見てくれる妻や子、同僚たちを大切にしてください。】という教えをいただきました。

故「山田憲道町長」からは、【小値賀町のような外海の離島は、決して他の市町村と合併してはいけない。自分たちの町のことは自分たちで話し合い運営していくことが一番だよ。】という教えをいただきました。

現在の小値賀町があるのは、これらの教えがあったからであり、この四人の歴代町長の考え方が、私の町政運営の原点であると深く感謝いたしております。

「精神一到何事か成らざらん」私の高校生時代の恩師「伊東和男氏」から送られた金言であり、私の座右の銘でございます。

この金言を胸に、決して信念を曲げなかった先人たちの教えを守り抜き、町民総参加で、これからの小値賀町を真剣に考え、町民一人ひとりが誇りと希望を持てる町づくりを進めていきます。そして、郷土「小値賀町」を未来永劫残し発展させるために、「町民あっての小値賀町・町民が主役の小値賀町」を目指し、次の世代へとバトンタッチするまでは、微力ではありますが、力の限り頑張ってまいりたいと強く決意いたしております。