山梨県富士河口湖町長 渡辺 喜久男
富士河口湖町は、富士山の北麓から北西麓にかけての東西に広がり、富士五湖のうち河口湖・西湖・精進湖・本栖湖を有します。町役場付近の標高は866メートルを測り、町全体が高原に立地しています。町域を取り囲むように御坂山地が連なり、富士山や湖の眺望に優れた景勝地が多くみられます。
当町の町名は河口湖に由来しますが、この湖名の初見は古代にまで遡ります。平安時代の貞観6年(864)に富士山の噴火による溶岩流の一部が「河口海」に向かったと『日本三代実録』に記されています。また、河口の地名は、『延喜式』にも記され、東海道の支路・甲斐路に置かれた河口駅の遺称です。
甲斐路は鎌倉街道となり、中道往還、若彦路と並んで、甲府盆地と駿河湾を結び、軍事路、塩や海産物の輸送路として甲斐国(山梨県)に必要不可欠な交通路として歴史を牽引しました。沿道にある当町の各地域は、全国とのアクセスに優れ多種多様な文化や物資が移入されました。
江戸時代までの当町域のうち、河口湖以東は都留郡、西湖以西は八代郡に属していました。河口湖畔に船津・浅川・小立・大石・河口・勝山・長浜・大嵐、西湖畔地域に西湖(西海)、精進湖畔に精進、本栖湖畔に本栖の各村がありました。このうち、精進・本栖の両村は武田氏に仕え国境の警固にあたった九一色衆に由来し、明治7年(1874)に九一色村となり、同22年(1889)以降は上九一色村となります。河口湖西岸の長浜村と西に隣接する西湖村は、合併と分離を経て、昭和17年(1942)に再度合併して西浜村となりました。河口湖南岸の船津村と小立村は明治8年(1875)に大富村を形成しますが、同22年に分離します。河口湖東岸の浅川村は、同8年に河口村に編入されましたが同22年には船津村に編入します。河口湖の南西の大嵐村は同22年に鳴沢村と合併後、同32年に分離して単独に復します。このような経過をたどった町域の村々ですが、昭和30年代の初頭に大きな転機を迎えます。いわゆる「昭和の大合併」です。河口湖畔の地域では、船津村(浅川を含む)・小立村・大石村・河口村が昭和31年(1956)に合併して河口湖町が発足、河口湖と西湖にまたがる西浜村は、大嵐村と合併して同30年(1955)に足和田村となりました。河口湖南岸の勝山村、精進・本栖の両湖畔を含む上九一色村は従来通りの村制を継続しました。
平成15年(2003)、河口湖町、勝山村、足和田村が合併し富士河口湖町が誕生し、さらに同18年(2006)には、上九一色村のうち精進・本栖・富士ヶ嶺の地域が国内で唯一の事例とされる分村合併により富士河口湖町に加わりました。この「平成の大合併」により4つの湖と高原を有する広大な町域となりました。
初代町長である小佐野常夫氏は、五感文化構想・フィールドミュージアム構想を掲げ、五感にはたらきかける多種多様な文化・観光施設の整備充実、温泉を掘削するなど、国際観光都市としての地位を不動のものとしました。
霊峰富士の懐に抱かれ、美しい自然に恵まれたわが町は、誰もが安心して産み育てられるまち、生を全うできるまちの実現を推進し、山梨県内では希少な人口を維持する自治体のひとつとなっています。
コロナ禍にあっても、町民の皆様と、力と心を合わせて感染症対策と地域経済対策の両立に取り組み、より魅力あふれる富士河口湖町を築いてまいります。
最後に身上ですが、35年間町役場に奉職し、その後町議を2期務め(2期目途中で辞職し町長選に立候補)、現在2期目の町長を務めていますが、その政治信条は「融和」であります。座右の銘は「寿山聳(じゅさんそびゆる―孔子の生地)」です。生涯において尊敬する人は、手塩にかけて育ててくれた母であります。