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日々前進

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年9月14日

町村長顔写真熊本県氷川町長 藤本 一臣​

氷川町は、平成17年10月1日に竜北町と宮原町が合併して誕生しました。熊本県のほぼ中央、県都熊本市から南へ30kmに位置し、町の中央部を東から西へ町名の由来となる二級河川「氷川」が流れ、南北に走る国道3号を境に東部の丘陵地帯では、梨や晩白柚などの果樹栽培、西部の田園地帯では、もち米、イ草、苺、トマト、露地野菜などが栽培される農業が盛んな総面積33.3㎢、人口12,000人の小さな町です。

町土の約半分は干拓によって形成されており、古くは17世紀から19世紀の江戸時代に埋め立てられ、昭和42年に西の八郎潟と称される528haの面積を擁する「不知火干拓」が築造され現在に至っています。

干拓地ゆえに水害との戦いは宿命であり、昔も今も変わりません。

私の記憶にも、幾度となく大雨で辺り一面水没し、道路との境が分からない中、電柱を頼りに登校したことが鮮やかに残っています。

そのため昭和40年代後半から農業基盤整備事業に取り組まれ、区画整理による用排水路の分離、排水機場の設置、さらには農業用水のパイプライン化が図られ、農業生産の基盤が築かれてきました。

しかしながら、施設の老朽化に加え、農業経営の変遷に伴い農地の汎用化をめざした再整備が求められています。

なお、先人が尽力されてきたこの土地改良事業は、単に農業生産の基盤が確立されただけでなく、町民の生命・財産を水害から守るという重要な役割を果たしていることは言うまでもありません。

さて、私は50歳の時、32年間の役場職員生活に終止符を打ち、「安心して暮らせ、幸せを実感できるまちづくり」を政治信条に平成21年11月現職に就任して11年目を迎えています。

就任して、最初に手掛けたのが、先述した農業基盤の再整備であります。

基礎調査から受益農家の合意形成に至るまで5年、事業に着手して現在6年目を迎え、令和7年度の完成を見込んでおり、自治体の事業は一朝一夕にはできないことを実感しています。

同時並行で進めた事業が、スマートインターチェンジ建設事業(以後SICと表記)と学校施設の大規模改修耐震補強事業であります。

SICは、就任6か月前に国の連結許可が下りたものでしたが、議会内も賛否両論あり、事業予算が一時凍結される波乱の船出でありました。二元代表制の洗礼を受けたわけでありますが、その後事業の必要性を理解して頂き事業に着手、6年の歳月を経て平成28年3月に宇城・氷川SICとして全線開通しました。

学校施設の大規模改修並びに耐震補強事業も平成21年度から年次計画で推進し、町内5つの小・中学校校舎、体育館及び武道場全ての改修が平成28年3月に完了しました。

そして、平成28年4月熊本地震が発生しました。

本震及び前震の激しい揺れは経験のないもので、本町でも震災関連死3名、海岸堤防の破損、農地の液状化、道路の隆起陥没、農業用水パイプライン破損25ヵ所をはじめ、1,000棟余りの建物が被災し、内350棟を解体する未曾有の災害でありましたが、学校施設はほぼ無傷で避難所として利用することができ、宇城・氷川SICを経由して、支援物資の受け入れや生活道路の補完として活用ができました。

結果論ですが「備えあれば憂いなし」のことばを実感した瞬間でした。

全国からの励ましの言葉や支援に改めて感謝申し上げますとともに、首長として何より心強く感じたのは、国・県からの支援はもとより、役場職員の懸命に頑張る姿勢でした。発災直後から通常業務の傍ら、避難所の対応、被害認定調査、罹災証明の発行、被災ごみの受入れ、被災家屋等解体手続き、生活再建支援等手続き、応急仮設住宅入居手続きなど全ての震災復旧事務を他自治体からの職員派遣を受けずに、130名足らずの職員のみで職務を遂行したことは、誇るべき人財であり町の宝であります。

さて、今年も7月の集中豪雨により熊本県をはじめ全国で甚大な被害が発生しました。特に、近隣の八代市、人吉球磨地域、芦北地域の惨状は熊本地震を彷彿とさせるものであります。しかも新型コロナウイルス感染症渦中での対応は困難を極めると察しますが、「苦難は超えられるものにしか与えられない」との信念を持ち、こうべを垂れることなく共に前を向いて進んでまいりましょう。住民生活を最前線で守る町村の誇りにかけて!