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町村長に「エール」を

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年8月31日

宮城県川崎町長宮城県川崎町長 小山 修作

作曲家・古関裕而の生涯をモチーフにしたNHK朝の連続テレビ小説「エール」が大好評、絶賛放送中。

「長崎の鐘」、「君の名は」、「栄冠は君に輝く」。彼が世に送り出した曲数は、約5、000曲。その業績は言うまでもないが、彼がデビュー当時、なかなかヒット曲に恵まれず、会社から契約を打ち切られそうになるシーンがテレビに登場する。この時、会社に抗議する者がいた。同時期に日本コロムビアの専属作曲家だった古賀政男である。古賀は当時すでにヒット曲を連発する実力者だった。

ところで、古関の窮地を救った古賀だが、彼の苦労も並大抵ではなかったようだ。その話が川崎町の青根温泉に伝わっている。古賀の自伝「歌はわが友わが心」にこうある。

大学生の時、蔵王山麓にある温泉に宿を取った。友人の誘いだったが、この不況で卒業しても仕事がない…。俺なんか生きていても仕方ない。思いつめた私は剃刀を握って宿を抜け出した。貧しさと失恋も重なっていた。自殺未遂を図る。その夜、胸のうっ屈は凝固して詩になった。愛の破局、生活苦、当時の私の心象すべて織り込み謳い上げたものが〝影を慕いて〟そのものである

それゆえ青根温泉の看板には「影を慕いて発祥の地」とあるのだが、仙台藩主、伊達政宗公が愛した湯としても有名だ。その昔、政宗公は名湯で戦の傷を癒しながら、仙台藩の領国経営を練ったというのだ。仙台藩が千代も続くような領国経営を。

かくして傷ついた戦国武将を護り不遇な音楽家に転機を与えた名湯の地は、今もなお多くの人々を受け入れている。特に10月、「青根温泉感謝祭」と銘打ち、古賀先生ゆかりの人々を招きつつ、来場者には地酒、炭火焼きのサンマなどが振る舞われ、山あいには、1日中、人々の歌う古賀メロディーが響きわたる。

ちなみにこの祭り、私が町長に就任してから、温泉・音楽・おいしいもの。おおお、3拍子揃ってる?


おっと政宗公と言えば、東日本大震災のちょうど400年前、慶長三陸地震の津波によって領内に大打撃を受け、現代のような手厚い中央政府(幕府)の支援がない中で家臣をスペインの国王およびバチカンのローマ法皇のもとに派遣した人物でもある。災害対応に追われながら産業振興を図り、新しい船を建造して海外と交流するというとてつもない計画。その使者に選ばれたのがわが町の支倉で育った支倉常長だ。

彼の人となりは、作家・遠藤周作が34年前に発表した「侍」に

自分のただ一つの取柄は忍耐づよいことだと考えていたが、領民たちは彼よりも、もっと従順で我慢づよかった。そんな領民と話をしている時、侍は身分の違いを忘れ、自分と彼らを結びつけているものを感じる。侍は、この土地が嫌いではなかった

とある。

毎年、6月に常長祭りが開催される。新緑の中を甲冑姿の侍、西洋貴婦人、常長を乗せた船をひく人、人、人。多くの人々が常長を慕って集まる。侍であり外交官であり旅行者であり、なにより、有能なリーダーであった常長を慕って集まるのだ。


川崎町は多くの人々を受け入れる。4月はアラバキ・ロックフェスティバルが開催され、2日間で全国各地から50、000人の若者たちが集結する。東日本を代表する屋外フェスだ。私もお客様に御礼を。これがSNS上では、アラバキ町長、日本一盛り上がる町長の挨拶、と評判である(笑)(写真)

おっと紙面あとわずか。改めて全国の町村長の皆様にエールを送る。


「いよいよ、本格的な人口減少の時代。心が沈んでしまうようなコロナの時代。しかし、かつて戦後の荒廃した時代を乗り越えて東京オリンピックが開催されたように、心も浮き立つような古関裕而作曲の「オリンピック・マーチ」が国立競技場から全世界に鳴り響いたように、私たちの心に、人々の心の中に、幸福を求めて努力する情熱は消えることはないのだぁ~。いざゆけぇ~。

がんばれぇ~。がんばれぇ~。

我ら町村長!イェ~ッ。」