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大災害 絶望から希望へ

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年7月6日更新

佐賀県大町町長水川一哉佐賀県大町町長 水川 一哉​

50年ほど前までは炭鉱の町として隆盛を誇った大町町。町の北壁“聖岳”から望む風景はいつも通りの眺めだ。緩やかな南面傾斜の山麓、そして裾野を形成する街並みや六角川沿いに広がる田園風景。今は田植えシーズン、田植機があちこちで動く。六角川は不規則に蛇行し、隣町との境界を成す。その向こうに見える九州最大の湾・有明海は有数の干満差で知られる。そして遠く雲仙、普賢岳を一望する。聖岳連峰の懐に抱かれた佇まいは自然豊かだ。春は山桜や藤の香が薫り、夏の深緑、秋にははぜや銀杏の木々が山麓を彩る。

聖岳は大町町のシンボルとなっているが、大して高い山ではない。わずか400m程度の山だが、むしろ人が住むにふさわしい高さの山だ。町の施設にはだいたい“ひじり”の名が付いている。老人福祉センターひじり、日帰り温泉ひじり乃湯、物産所はひじりの里だ。小中一貫校ひじり学園の校歌には、当然、ひじりの歌詞が入っている。そして、創作太鼓ひじり太鼓に農家のおばちゃんたちが丹精込めて作るひじり味噌。町民にとっても“聖岳”の存在は大きい。


昨年8月28日、その母なる山から見える町の風景が一変、絶望的な光景が広がった。佐賀県を襲った「令和元年八月大雨」である。至る所で山肌が削れ、町の4分の1が大雨により浸水、多くの家屋が壊滅的な被害に遭った。

28日未明から降り始めた雨は、2時間で150ミリを超えた。異常な雨音、臭い、空気感、頑丈な庁舎に居ても何かが違うと感じた。情報収集のため、職員を巡視に向かわせ、気象情報を睨みながら「避難指示」のタイミングを窺っていた。もちろん躊躇したわけではなく、大雨と夜明け前の暗闇の中での避難は、リスクが高いと考えた。良くも悪くも自らに冷静さを言い聞かせたのを覚えている。それから雨は小降りになり、夜は明けつつあった。

5時40分、静けさをつんざくサイレン音と共に、1回目の「避難指示」を発令した。全職員が警戒と避難支援に当たった。更に6時30分、2回目の「避難指示」を出した。この頃になると、一部の低地や道路が冠水し始めていた。「人命第一」「逃げ遅れゼロ」を合言葉に、救援活動に徹した。そこに、水害を受けた鉄工所からの油流出の一報が入った。30年前の悲惨な光景が浮かんだ。油の流出は2回目だった。すぐ職員を向かわせたが、油は一帯に広がっていた。最近は便利になった。スマホの動画を見ながら指示を出すことができた。雨は小康状態になったが、町の地形は聖岳連峰を頂とした緩い南面傾斜である。山麓に降った雨は、2時間、3時間をかけて街並みや田園地帯を目がけ流れ下ってくる。たとえ雨が止んでも、水嵩は増え続ける地形だ。しかも六角川は大雨や満潮時は平地よりも水面が高くなる厄介な川だ。頼みはポンプ場の排水ポンプ。いつもは正常に機能し事なきを得る。しかし、降った雨量は尋常じゃなかった。増え続ける水量は排水能力を超え、11時頃から、ポンプ室の浸水が始まり、到頭水没してしまった。更にきつかったのは、炭鉱遺産“ボタ山”の崩落だった。幸い住家には至ってない。近隣には町営住宅や住家が建ち並ぶ。即座に3回目の「避難指示」を発令した。避難を拒む家には、1軒1軒職員が説得に走り回った。避難者は400人を超えたが、7日後、ようやく「避難指示解除」の報を告げた。避難者の瞳が潤み、涙がこぼれた。

1回目の「避難指示」発令から、わずか6時間。次から次に起こる事象、にもかかわらず1人の死傷者も出さなかったことは何よりの救いだった。

発災から9ケ月が過ぎ、今では徐々に平常を取り戻している。被災地区では、被災家屋の解体が進み、油に浸かった田畑も見事に復活した。被災者は苦境を乗り越え、絶望を希望に変えひた向きだ。その姿に確かな希望の光が見える。それもこれも、沢山の励ましが支えになったことは言うまでもない。


今回、この随想欄の執筆依頼をきっかけに、久しぶりに母なる山“聖岳”に登ってみた。そこから見る景色は、いつも通りだった。

結びに、この度の災害で、国や県、全国の市町村、そしてNPO、ボランティアをはじめ、ご心配ご支援いただいたすべての皆様に、町民を代表して改めて感謝します。

ありがとうございました。