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「我が師の道」

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年5月18日

秋田県藤里町長  佐々木 文明秋田県藤里​町長  佐々木 文明​

私がもの心ついた時代は、テレビがようやく各家々につきはじめた頃で、その頃の遊びとしては、ビー玉、メンコ、草野球といったもので、清涼飲料水の蓋を重ねてボール状にし、真っ直ぐの木の枝を採ってきてバット代わりにし、地域の小さい子どもから中学3年生まで、日が暮れるまで遊んだ記憶があります。当時はまだプールといったものはなく、夏休みともなれば地域ごとに川の淵で泳いだり、自宅からジャガイモと塩を持って集まり、中学生がその辺の枯れ木に火を着けて、獲った魚を焼いたりして、今で言う「サバイバル」のような経験を、連綿として受け継いできた思い出があります。ここでまだ泳げない子供は、先輩の甘い言葉を信じて川に入り、半分溺れかけのようにされながらも泳ぎを覚える、といった地域の子供の序列で成長してきたのです。そのことは時代の流れと共に徐々に薄れてきて、私が小学校高学年の時にはプールが出来るのと同時に、川での遊泳等は禁止となってしまい、野外での遊びも段々と少なくなってしまいました。

夜の楽しみはプロ野球観戦でした。長嶋、王といった往年のスターが、ここぞといった場面でホームランを放ち、満面の笑顔でホームベースを踏む姿は、今でも鮮明に脳裏に蘇ってきます。特に忘れられないシーンは、同点或いは負けている試合での最終回などで、王が打席に立った場面や、スイングに入った瞬間に、テレビ放映が終わってしまうことが多々ありました。布団に入ってから、その際の逆転シーンを思い浮かべ、悶々としながらも深い眠りに入っていったのであります。

その後、中学で少し、高校で少し軟式野球をやりましたが、本格的に野球をやり始めたのは、職場に入ってからであります。入部式の際は、新入部員の柔軟性を試すという口実で、両手を前で縛りその間に両足を交互に入れて後ろ手にし、再度それを戻すという儀式でありました。そんなのは簡単と思いつつ、全員一斉にそのことを始めると、全員が後ろ手になった瞬間を見計らったように、先輩たちが身動きの不自由な新入部員を転ばして、寄って集ってくすぐり始めるといった単純な儀式ではありましたが、その際の「忌々しい」思いは今でも忘れることが出来ません。かく言う私もその後何度かそれをする側になって、若い部員を憮然とさせてきたことも思い出です。

この職場野球を通じて様々な場面を経験させていただいたと同時に、当時職場の上司でもあり、野球部の監督で審判員の資格もあった「我が師」を、上下左右、遠近の多方面からの視点により、徐々に慕うようになり、「自分もあの人のようになりたい!」と、審判員の資格を取得し、各種大会にも派遣していただくようになりました。しかしながら、全県の審判部内のトラブルが発生した際に、私共の支部から4名の除名者が出て、その中には「我が師」も私も入っていたのですが、私だけはまだ少し若いということで復帰が認められ、その後、甲子園予選や社会人野球の審判員をやらせていただいて、現職に就く少し前に現役生活にピリオドを打った次第でありました。

現役時代の思い出は数々ありますが、失敗した思い出だけを忘れられない物語のように覚えています。しかしながら、自分1人がそこで判定している訳でなく、野球の審判員はもう3人のクルーがそれぞれの持ち場で、そして同じクルーのカバーリングをすることにより、1つの試合が完結していくのであります。まさに自治体の仕事も全く同じで、さまざまな考え方、それぞれ違う視点を持ち寄って議論を重ね、より良い結果に結び付けていくことが大切であります。近年職場のコミュニケーションの1つでもある、飲酒等の席に参加する人が少ないとのことが言われております。飲酒に限らずコミュニケーションが必要なのは言うまでもありませんが、言わなければならないことまで言い難い時代になってきているのではないでしょうか。古き良き時代、地域の伝承、「我が師」の道を辿り、今日も職場に向かいます。