鹿児島県和泊町長 伊地知 実利
鹿児島県和泊町は鹿児島市から南西方向530kmに浮かぶ沖永良部島の東北部に位置する人口6、551人(2019.10.1現在)の小さな町である。沖永良部島は周囲55.8km面積93.6㎢の木の葉状の島で、隣の知名町と本町の2つの行政区から成り立っている。島は隆起珊瑚石灰岩で覆われており、最高峰は知名町の大山(標高240m)、本町の最高峰は越山(標高188m)があるのみで平坦な段丘状の地形で耕地に恵まれている。河川が少なく地表の水源に乏しいが、地下には200以上の鍾乳洞が発達しているため地下水源は豊富である。
本町は面積40㎢、21の集落からなり、人口密度は162人、耕地面積2、350ha、耕地率58.2%と耕地に恵まれている。年平均気温22.4℃、年平均降水量は1、836mmの温暖な気候を活かして、明治時代から外貨を稼ぐため、百合の球根栽培が始まっており、その技術を継承発展させた園芸作物の栽培が盛んである。産業の柱を農業として位置づけ、サトウキビ・輸送野菜・花き・肉用牛を組み合わせた複合経営が定着しており、平成28年度の販売農家戸数は736戸、農業生産額は75億円弱(奄美群島の概況)であり、販売農家1戸当たり農業生産額は1、018万円となっており農業の町としての地位を築いている。
全国と同様に人口減少に歯止めはかからないものの、日本創生会議の絶滅可能性都市から外れるなど人口の減少率は低い。そのことは、産業として雇用を確保する大きな企業は無いものの、農業後継者が定着しており、特に収益性の高い切花栽培農家、子牛価格が堅調な生産牛農家等には後継者が確保されやすい状況にあることが要因と考えられる。今後とも本町農業は切花栽培と土地利用型のサトウキビ栽培、馬鈴薯栽培、生産牛農家に集約されていく可能性が大きい。さらに新たな農業の展開を図るには長距離輸送コストに耐える新品目や加工品の研究開発が避けて通れない課題である。
沖永良部島は、他の奄美群島と同様に西暦1200年代から琉球三山時代の北山王の支配下にあり、その後1609年の薩摩の琉球侵攻、明治維新の廃藩置県により行政上鹿児島県に配属されて以降も現在まで琉球文化圏である。伝統舞踊はもちろんのこと、方言は沖縄北部の国頭語といわれる絶滅危機言語であり、民謡・食文化・生活様式等色濃く琉球文化の影響を受けている。本町では平成7年から町営の有線TVにより自主放送を含めて地上波12チャンネルを各家庭に配信しているが、そのうち4波は沖縄県のTV局である。
また、本町は西郷隆盛が藩主島津久光の怒りに触れて、文久2年から1年半配流され、その在島期間中に「敬天愛人」の大思想を確立した地であり、大西郷が島の人たちに与えた教育・道徳・政治の要諦等の影響は極めて大きなものがある。穏やか、勤勉、進取の気性といった町民性の醸成には西郷の教えが大きいといわれている。そのことを受けて本町は昭和55年に「教育の町」を宣言し、「人づくり」「土づくり」「健康づくり」「花づくり」を町民4大運動として推進しているところである。健康づくりの成果として、一人当たりの医療費は平成28・29年度ともに鹿児島県下で最低となっている。一方で、花きの販売額は30億円を維持しており安定した農業経営が実現されている。
少子高齢化、人口減少は全国的に避けられない現実であるが、AI・IoTの時代といわれるIT社会の中で今後とも農業を産業の核として位置づけ、琉球と薩摩の文化を礎として、安定した農業生産性を確保しつつ、豊かな自然、温暖な気候、温和な町民性、ゆったり流れる島時間の中で真の豊かな暮らしを求めて、令和の新しい時代に定住促進と観光と福祉、農業を結びつけた町の振興発展に取り組んでいかなければならないと考えるところである。