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日本一!消防団物語

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年11月11日

栃木県益子町長 大塚 朋之栃木県益子町長 大塚 朋之

2018年10月19日。それは、第26回全国消防操法大会 自動車ポンプの部において「益子町消防団1分団2部」が日本一に登り詰めた日でした。

全国的に「消防団員不足」が問題になっていますが、それは益子町でも同じ状況。しかし、そんな時代の流れに真っ向から抗いながら「かっこよく生きる」消防団員の皆さんに、私を含め多くの町民が励まされています。

日本一になるまでの物語の始まりは1980年(昭和55年)まで遡ります。それ以前の益子町消防団は、全国大会はおろか県大会にさえ出場できない状況。郡大会では常に隣の真岡市消防団という壁がありました。突破したのは、後に消防団長や商工会長を務めたIさんを指揮者とするチーム。Iさんは「目指すこと」から始めました。それは、郡大会初優勝のみならず「県大会優勝」でした。先輩方が「勝気なDNA」を植え付けてくれました。

その後、県大会の常連となり「自動車ポンプの部」では常に上位の成績。「小型ポンプの部」でも2010年に県初優勝を飾りました。ところが優勝した年(ポンプ車5回・小型2回)は、すべて全国大会がない年。全国大会の年は、常に僅差で苦杯をなめ続け、選手たちの男泣きを何度も何度も目にしました。

全国大会の最初の扉を開けたのは2016年。「小型ポンプの部」の3分団4部でした。優勝が決まった瞬間の感動、そしてなぜか私も胴上げをしてもらったのですが、その気持ち良さは今でも鮮明に覚えています。このチームは初出場ながら全国8位という好成績を残してくれました。今は亡きIさんも長野まで応援に駆け付けて、36年越しの夢の実現を心底喜んでいました。2年後の2018年。今度は「自動車ポンプの部」で1分団2部が堂々たる県大会優勝を飾り、一気に日本一へと登り詰めることが出来ました。悔し涙を流し続けた分、日本一想いをもって、日本一にふさわしい訓練を選手たちはしていました。

日本一になったことで、県外市町村から消防団の方々が視察研修に訪れてくださるようになりました。私も歓迎のあいさつと共に、生意気にも益子町消防団活躍の要因について話をさせていただくこともあります。その際はいつも「三つの良い要素」を挙げています。

一つ目は「良い指導者」。歴代の団長はそれぞれ「全国大会出場」や「日本一」を町の賀詞交歓会で高らかに宣言しています。志を同じくして、部長も指揮者も「全国」や「日本一」を当たり前のように公言していました。日本一の富士山を登るのと、町で一番高い山を登るのでは自ずと違う準備・心構えが必要です。「どこを目指すのか」を明示する良い指導者たちがいました。

二つ目は「良い選手」。運動神経が良いに越したことはありませんが、人間性の良さが最も大切だと思います。忍耐力、協調性、そして操法に求められる堅実性。小さな基本を大切にコツコツと努力できる真面目な操法員が日本一のチームには揃っていました。

三つ目が「良い環境」。家庭・地域・職場が、頑張る選手をいかに応援しているか?日ごろからの消防の活動や「操法の練習を一生懸命やることが正しい」と周りが思っているかどうかが大切です。益子町では、操法大会には家族や地域の皆さんが応援に駆け付けてくれます。職場という事で言えば、役場職員も日本一のチームに含まれています。私もこの時期ばかりは「1に消防、2に家庭。仕事は3番目でいい」と公言しています(笑)

消防団を取り巻く環境は厳しいけれど、その中で彼らは生涯の友を得、共に夢を描き、汗や涙を流しながら自分の物語を作っています。その過程で、人間を磨き、「自分の町は自分で守る。自分の町は自分でつくる」という自治意識を高めています。消防団は未来の地域リーダーづくりでもあるのだと思います。ちなみに益子町の直近の夏季点検・通常点検の出場率は97・7%。次の夢は出場率100%と小型ポンプでの日本一。物語はまだまだ続きます。全国の消防団員の活躍が地方創生に必ずや繋がるものと確信しております。