長崎県東彼杵町長 岡田 伊一郎
私の祖先は広島県尾道市がルーツだとよく聞かされてきました。どうやって長崎県東彼杵町に住み着いたのか、理由はわかりませんが、岡田という姓は確かに関西や広島県に多いような気がします。
曾祖父は伊平と言い、祖父は伊三郎、ひ孫の私が伊一郎で、父親を除き三人が伊を継承しています。私の子どもは男一人で違う名前になり断絶してしまいました。
私は今まで三度、九死に一生を得る出来事がありました。最初は三歳の頃で記憶にはありませんが、橋から千綿川に転落し、近所の方に救助され、二度目は東彼杵町役場の採用試験に合格し、自宅から通勤途中に対向車線から追い越し中の大型トラックが中央線をはみ出し、接近してきました。幸いにも軽自動車だったため何とか正面衝突を避けることができましたが、未だにその場所を通る度に記憶が蘇ることがあります。三度目は私の自業自得による泥酔状態で、二階の階段から下の廊下まで転落しましたが、偶然にも構造が螺旋階段になっていたため、途中のクロスに激突したことでクッションの役割になり、肩と腸骨の骨折で済みました。もし頸椎が折れていたら命はなかったと医師の方からいわれました。ここまで生かされたのは、運命か宿命だったのかと、瀬戸内寂聴さんの「人間は死ぬために生きる」という言葉を再認識させられました。
私は他所の仕事を経験してから家業に戻るという約束で、東彼杵町役場を受験し、偶然にも合格してしまったことで、人生のレールが全く違う行先になったような気がします。
母はいつもやさしく、一度も怒られたことがありませんでした。父からの小言や叱責も全て母が受け止めてくれました。少しも自分のためにお金を使うことはなく、旅行なども殆ど行っていないような気がします。小さい時から茶工場で手伝いをした分、貯金をして、野球のグローブやバットを買ってくれました。いつも口癖のように、「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という米沢藩主の上杉鷹山の言葉で励ましてくれました。
母は今、96歳になりますが、もう一つ、「上をみればキリがない、下をみてもキリがない」ということもよく聞かされていました。私は殆ど親孝行をしていませんので、百歳まで生きてほしいとの願いがあります。
役場に30年間勤務させてもらいましたが、以前の町長選挙でも4期の現職が5期目を目指される時、新人との一騎打ちとなり、現職が新人に敗れ、しばらく町民が二分した時に議会事務局長でありました。議員さんも現職派と新人派に分かれ激しい争いが続いている折、監査事務局も兼務していました。百条委員会や住民監査請求などの問題が同時に発生し、事務部局の職員は二人と臨時職員の三人だけですので、専門知識を勉強することから始めなければなりませんでした。
16年も前のことが、鮮明に記憶が蘇ってきます。その当時の議員さんから課長が激しく罵倒され、制止に入った私にも攻撃の矛先が向きました。相手は選良であり、私は町職員ということで、反論するにも限界を感じましたので、これなら同じ土俵に上がらなければ、意見を対等に言えないと考えました。
早期退職し、一念発起して町議会議員に立候補し、53歳で当選させていただきました。3期12年間お世話になって、平成最後の統一選挙の町長選挙に立候補することになりました。結果はどうであれ選挙をすべきだという町民の方の声が多く、思い切って挑戦させて頂きました。田舎の選挙は非常に激しいですし、しばらくは、しこりが残るでしょうが、選挙が終わればノーサイドにしてほしいと願っています。
人間の一生である80年から100年は宇宙時間の長さと比較すると、一瞬の瞬きにもすぎないかもしれません。いろいろな説がありますが、地球が誕生して46億年が過ぎ、あと50億年くらいで太陽も寿命を迎えると言われており、星も誕生と消滅を繰り返しています。
過去を振り返っても時間は元に戻りません。私は「前に」という言葉が好きです。失敗も何度もありますが、未来に向かって思い切り生きる。人生は一度キリ、1期目の町長就任祝いに大先輩の方から「菜根譚」という書物を頂きました。組織にいて組織を超える生き方を胸に刻み、協心戮力を心がけ、町政に取り組んでいきたいと思います。