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先人の想いを町づくりに生かして

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年8月5日

山梨県町村会長 南部町長 佐野 和広氏 顔写真山梨県町村会長・南部町長 佐野 和広

今から8年前(平成23年)1月、山梨県知事選挙のさなか、現職の秘書であった私のところに町長選への出馬要請がありました。政治の世界は元々好きではありましたが、本人がそのような立場に立たされるとは思ってもいませんでした。自治体規模の大小の違いはありますが、休み返上で公務にあけくれる首長の仕事ぶりを間近で見ていた上に、既に二人の議長経験者が活発な活動をしていたものですから、丁重にお断りをいたしました。しかし、日毎に周囲の声が大きくなったものですから、決断するまでに少しの猶予をいただきたいと申し上げ、ここは見知らぬ第三者の助言を聞くのも一案かなと考え、妻と共に横浜元町の姓名判断者のところまで車を走らせました。私の予想に反し、強く出馬を促されたものですから、その場を去るときはますます迷いが深まりました。そのときの光景は今でも脳裡に焼き付いております。最終的に決断を下したのには、もう一つの理由がありました。長女がその年の4月より記者の道を進むことになっておりましたので、親である私がここで躊躇していていいのかと、最後には自分を奮いたたせました。極めて短期間での選挙活動ではありましたが、「一流の田舎町を目指して」というキャッチフレーズのもと、三つ巴を制して今に至っております。このような経過を辿った私がこの6月に町村会長に就任したのですから人の歩みはわからないものです。

さて、この度、本誌への執筆を依頼されたものですから本町を全国の皆様に知っていただける絶好の機会ですので、少しだけ紹介させていただきます。全国には同名の自治体がいくつかありますが、本町は中世末期から奥州で活躍した豪族 南部氏の発祥の地です。平安時代に甲斐源氏の一族である加賀美次郎遠光の三男、光行公がこの地を治め、南部氏を称したことからはじまります。光行公は源頼朝に仕え、頼朝の奥州藤原氏征伐の軍に従い、戦功を挙げ現在の青森県と岩手県の一部にあたる奥州糠部五郡を与えられました。やがて中世末期から近世を経て徳川時代の南部藩(盛岡藩)の祖となり奥州の名門として明治になるまで栄えました。

現在は南部氏にゆかりのある山梨県身延町・青森県(八戸市・七戸町・三戸町・南部町)、岩手県(盛岡市・二戸市・遠野市)との間で、Virtual(仮想)合併による「平成・南部藩」を設立し、南部氏の縁を大切にし、情報発信するとともに、子供サミットや一日国替事業などの交流を行っております。(平成30年度から宮古市も加わりました。)構成自治体の中では最小ではありますが、これまでに国替事業の一環で八戸市、盛岡市での大祭の招待を受け、一日市長を任命され市内をねり歩いた際には、沿道から「我らがご先祖様」と大きな歓声をいただき、さらに地元のマスコミ各社からも取材を受けるという大変な感激を味わいました。その時の想いが昨年完成した「道の駅なんぶ」内の資料館建設につながりました。本町は歴史と文化の香りが漂うまちであると標榜しておりますが、そこにはそれだけの理由がございます。明治2(1869)年地元の名家近藤家の喜則翁により、山梨県を代表する私塾「蒙軒学舎」が創設されました。喜則翁は幼少期から学問や諸芸を学び、江戸や長崎へも遊学し、次第に新進開明的な思想を身につけてきました。優れた教師を集めた先進的な学風の声価は著しく、県内はもとより、静岡・神奈川からも学ぶ者が集まり、政治家・実業家をはじめ、多くの逸材を輩出しました。評論家で詩人でもある北村透谷も在籍しました。近藤家の末裔には日本を代表する水墨画の浩一路がおりますが、本町のアルカディア図書館にはその作品が常設されております。

紙面の都合上ほんの一端しか紹介できませんでしたが、平成の大合併の県内第一号として誕生した本町ですが押し寄せる時代の波には逆らえず、急激な少子化と高齢化に直面しております。しかしここにきて悲願でありました中部横断自動車道の開通が間近に迫ってきたことにより、発展の大きな流れが生まれつつあります。このチャンスを逃すことなく、新元号・令和の時代にふさわしい「融和と活力に満ちた町づくり」に全力で取り組んでまいります。