佐賀県基山町長 松田 一也
私が住む基山町は、古くから九州の交通の要衝として、長崎街道が、まちの真ん中を通り、多くの旅路を支えてきました。現在も、九州縦貫道の基山パーキングエリア内に、高速バスの縦貫道と横断道の乗り継ぎ拠点でもある高速バス停「高速基山」があり、福岡空港や博多駅、天神などに直結しています。また、鉄道でも、JR博多駅から快速で23分という利便性を備えているほか、国道3号線や主要県道等により、日常の交通網も充実しており、人流、物流等の拠点となっています。
特に、つつじやもみじの名所の大興善寺が多くの観光客を集めているほか、近年では、オーストラリア原産の大型鳥「エミュー」が、400羽以上飼育されるなど、町の話題性が増しています。更に、本年7月にはライチの観光農園がオープンするほか、神社・仏閣巡りプロジェクトなどの動きも出てきており、短期滞在型の交流拠点として、交流人口の増大が期待されています。
また、体育館、武道場、多目的運動場等が整備され、交通の便と広い駐車場という優位性もあり、九州大会規模の各種スポーツ大会が、年間100回以上開催されています。その意味で、基山町は、まさに「交わりのまち」なのです。
もう一つが、「混ざりのまち」です。まず、基山町には、1354年前に、古代の朝鮮式山城「基肄城」が築城されました。この築城は、白村江の戦いにて、百済、日本の連合軍が、唐、新羅の連合軍に大敗し、その後の侵攻から大宰府を守るために行われたものですが、結局、唐と新羅の侵攻はありませんでした。その際、その工事にあたったのが、沢山の亡命百済(現在の韓国)技術者でした。その結果、沢山の韓国文化が基山町に流入し、広がり、基山町の生活とうまく混じっていったわけです。基山町の代表的な祭り、「御神幸祭」にも、獅子舞をはじめ、韓国文化の影響が色濃く残っています。つまり、韓国と基山町が混ざったのです。
次が、1598年からの273年間です。この間、基山町は、対馬藩の飛び地でした。同藩の代官所がおかれ、整然と優れた統治が行われ、特に、1675年から11年間、副代官として大活躍した賀島兵助公は、多くの制度改革を行い、基山町を大きく発展させました。その偉功をたたえ、今でも、毎年、賀島公の命日には、副代官を偲ぶ法事が、対馬市長をはじめ大勢の参拝者を招き、盛大に行われています。対馬との混じりは、基山町に多くの変化をもたらしました。まずは、藩校「東明館」が設置されました。現在、基山町には、その藩校の名前に由来する、中高一貫の私立校の「東明館学園」があります。また、産業面においても、養蚕や配置売薬などが、対馬から入ってきました。現在でも、基山町では、多くの方々が家庭薬配置業で生計を立てており、この小さな町に、二つの製薬会社があるのも、特筆すべきことだと思います。つまり、対馬と基山町が混ざったのです。
そして、三つ目が、1970年くらいからの30年間の基山町のベッドタウン化です。この間、基山町の人口は倍増しました。全国各地から、多くの方々が基山町へ移住されました。当初あった旧住民と新住民の壁も、スポーツや文化活動等により交流が進み、壁は徐々に低くなり、今では理想の形に近づいています。つまり、新しい基山町と古い基山町が混ざったのです。
これらの「交わり」と「混ざり」は、現在、基山町が進める地方創生の動きの中でも、その特性が十分に生かされており、国内外からの多くの観光客や移住定住者等の受け入れを通じて、本町に新たな展開を生み出していくと確信しています。