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織物のまちに生まれて

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年5月20日

京都府与謝野町長 山添 藤真京都府与謝野町長 山添 藤真

私は縁があり、20代の大半を華の都・パリで過ごしました。世界中から多様な考え方をもつ人たちが集まり、地域固有の特性を活かした商材が溢れる都。そんなきらびやかな場所で故郷と再会することになるとは夢にも思いませんでした。

京都府丹後半島の付け根に位置する与謝野町は、能の曲目の舞台として名高い大江山、千数百年前から白鮭の遡上が見られる野田川、日本三景天橋立に包まれる阿蘇海、山と川と海が調和した町です。その豊かな自然環境に支えられながら、地場産業である織物と農業は世界に誇れる営みとして発展しています。

そんな美しい町の舵取り役を担い5年の歳月が過ぎようとしています。この間、住民の皆様とともに取り組んできたまちづくりは確実に前進しているという手ごたえを感じています。とりわけ、与謝野町中小企業振興基本条例の理念にもとづく地場産業の持続的な発展をめざす取組には力を注いでまいりました。先人たちから受け継いだ伝統と文化を基盤としながらも、住民主体の新しい挑戦が広がりつつあることは、大きな喜びのひとつです。

私は江戸時代から続く丹後ちりめんの織元の長男として生まれました。幼い頃から、自宅に併設された工場から聞こえてくるガシャガシャという機音に守られて育ってきました。自宅から小学校へと続く道で機音が聞こえてこない場所がないほどに町中が活気にあふれていました。しかし、社会情勢とともにその光景は変化し、中学校などでも同級生がひとりふたりといなくなっていく様子は寂しい経験として心に残っています。

その子どもながらの感覚は産地の変遷と符合していました。遡ること300年前、地域の将来を憂いた青年たちが決死の覚悟で織物技術を持ち帰ったことが丹後ちりめんの発祥と言われています。昭和40年代に迎えた全盛期には事業所数は一万戸を超え、生産量は一千万反に達していましたが、和装需要の減少や生糸一元化輸入措置などの影響を受けて、産地としての力を維持できなくなっていったのです。

そのような状況下においても、織物事業者は決してあきらめることなく不断の努力を重ねています。従来の和装業界に対する製品供給のみならず、海外市場をめざした洋装生地やインテリアデザインとしてのテキスタイル開発をはじめ、多様な織物製品が創造されています。平成29年4月に日本遺産「丹後ちりめん回廊」の認定に象徴されるように、その歩みは与謝野町の産業観光としての基盤にもなりつつあります。

目を伏せたくなるような厳しい現実に直面しながらも、未来をみすえた深化と挑戦が広がりつつあるのは、地域を想う人々の存在があってこそだと思っています。平成17年度に与謝野町を含む丹後地域のものづくり職人が海外販路の拡大をめざして、パリで初となる展示会を開催されました。現地で建築を学ぶ大学生だった私は、地域で創造された製品と向き合いました。そして、地域に根ざした産業や文化を継承しようとする人々の心に触れた時、静かな感動が胸に押し寄せてきたことを今でも鮮明に覚えています。

過去を振り返りながら筆を進めるうちに、私自身が刻んできた経験と首長としてのまちづくりは不可分な関係であることが見えてきました。町長に就任してからの歳月、本稿でとりあげた織物関係者だけでなく、多種多様な人々とお出会いする機会に恵まれました。一つひとつの出会いに対して、いかに誠実に向き合うことができるか。町村長として成長できるか否かの答えはこの問いの中にあるように思います。

日本の未来は地域が創る。この想いを胸に刻み、京都府与謝野町の持続的な発展、全国の町村自治振興に向けて取り組んでまいります。