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昭和・平成・そして

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年6月7日

埼玉県町村会長・嵐山町長埼玉県町村会長・嵐山町長  岩澤 勝

幼少期の思い出も、すでにセピア色に色あせてしまいました。
しかしあの時の思い出。3歳の時でした。今でも一枚の画面として鮮明に蘇ります。
いつものように店前の道路で遊んでいました。その時、それこそ突然の大爆音。そして目前に飛行機。初めて間近に見た飛行機。何とそれは大きかったことか。店の前側にあった大きな柿の木にぶつかるかと思うほどの超低空飛行。店の内に飛び込んで、母の胸にしがみつく。まさに一瞬のことでした。
後になって聞かされました。それは近くにある私鉄線路敷へのB29による機銃掃射で、終戦直前の空襲であったこと。母に飛び込んだ私は、しばらく震えが止まらなかったと。

 

小学校に入学してからの、あの経験もなぜか忘れられません。
朝になると警察官が、リュックサックを背負った人、大きな風呂敷包みを肩に吊るしたり抱えたりした人など、何人も何人も、列にして引き連れて来ました。近くの私鉄の駅で、闇米の抜き打ち検査で捕まえられた人達でした。
私の家は商家・米屋でした。父は警察官の指示するままに、計量された闇米の数量を記録していく。その全量が配給所であった私の家の仕入数量としてカウントされる仕組み。
世はズシリと「食糧管理法」が社会に被さっている時でした。
親が病気で白いご飯を食べさせてあげたい…。子どもが病気で食べるものがない…。それぞれ必死の様相で哀願、机に顔をつけたままの人もいました。
聞こえているのか、聞きたくないのか、無口を貫き通して調書を作成していく。
父は自分の役目が終わると、商家の深い庇で薄暗い店内の電灯を切ってしまう。さらに暗くなり、連れて来られた人達の顔が暗闇に沈む。お互いの顔容が朧となり、店内の空気が静かに止まったような気がしました。
駅での検査がある朝は、これが常態でした。私は子供心に、米屋は嫌な仕事だといつも思っていました。
また、小学校では、各学年ごとにクラスの集合写真を残してくれました。
下級生の頃の写真は、肘や膝の破れに布を当てた服装が、当時では普通でした。現在のパッチワークそのものでした。
そんな時、昭和25年に朝鮮戦争が始まり、日本は兵站基地となり特需景気、昭和31年には「もはや戦後ではない」の有名な経済白書。経済も急成長しました。
集合写真からは、パッチワークが無くなり、鼻たれ小僧も少なくなっていきました。


昭和の前半は、戦争に苦しんだ時代、終戦からの後半は復興・成長となりました。
そして昭和64年1月7日、昭和の時代は終わりました。
昭和64年は7日で終わり、平成元年になりました。
第二次世界大戦の思いが薄れていく中で、日本では「戦後」という言葉はいまでも使われ続けています。
しかしこの「戦後」という言葉も、どこの国でも使えるわけではありません。
日本では、あの大戦以後、幸いにも世界の大国の中で、戦争に巻き込まれずに、ずっと平和が維持されてきました。
世界では、米国も中国もロシアも欧州でも、戦乱が起きています。


平成という元号は、「内平らかに外成る(史記)地平らかに天成る(書経)」という文言から引用されました。
「国の内外天地とも平和が達成される」という意味だそうです。その「平成」の「時」も残り少なくなりました。
来年の5月1日には、次の元号になります。
いつまでもいつまでも、この国は、「戦後」が使える国でありたいものです。