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笑顔

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年1月22日

エッセイスト 山本 兼太郎 (第2586号・平成19年1月22日)

20年以上も前に、知人のおばあちゃんが死に、嫁のA子さんは最後を看取った。古風な家庭でのおだやかな最後の風景を書いたことがある。ところが、今度はそのA子さんが倒れて寝たきりとなった。

*** 

83歳になるおばあちゃんが、急に元気がなくなって寝込んでしまった。「もう長くはないから、医者を呼ばなくていいよ」という。それでも心配なので、近所の医師に相談にいった。古くから家族そろって、なにかにつけて世話になっている老開業医である。

A子さんの話を黙って聞いていた老医師はにっこりうなずきながら言った。「おばあちゃんの言うとおりにしましょう。私も時々看に行きますから、声をかけて優しくしてやってください」「そろそろ今晩かもしれないね。極楽か地獄かどちらだろうかね」という。

A子さんは急いで家事をすませ、おばあちゃんを布団の上で赤ん坊のように抱きかかえると「極楽にきまっていますよ」と、2人は顔を見合わせて、にこにこと笑い合った「A子さん、いろいろと有難とう。私のお返しは笑顔しかないけれど、これだけでももらってください」 

こうした日が、しばらく続いたある日、おばあちゃんは嫁の腕の中で、おだやかな頬笑みを残して、息をひきとった。

***

20数年がたった。A子さんは最近倒れたというので、病院へ見舞いに行った。病名はよく分らないが、とにかく手足が痛くて動くことができない。ベットが最新式の医療器具にかこまれ、モニターで監視されて、すっかり老け込んでいた。しかし迎えてくれた笑顔は美しかった。「ずいぶん痛むというのによく笑顔におられるね」というと彼女は「おばあちゃんから笑顔という大きな遺産をもらいました。今度は私が遺していく番です。これだけが生きてきた恩返しです。」とまたにっこりした。