東京大学名誉教授 西川 治 (第2272号・平成11年5月17日)
名残りの花びらが頬や胸にふりかかる桜つづみ、白い水母(くらげ)のような半月、どこからともなく蛙の忍びねも聞こえてくる。戦前は武蔵野の浅い谷も一面に青く染まると、野や森のホールまでも田園の第演奏でみたされた。今では多摩の丘でも選挙の宣伝カーには悩まされるが、蛙たちは谷戸の狭田から空しく不満を訴えるだけである。
イソップの寓話では、牛とひきがえる、王様を欲しがる蛙たち、太陽と蛙など、その活躍はめざましい。“兎と蛙”は、自分たち以上に臆病な動物がいると分かり、身投げをやめた兎の話。“ライオンと蛙”は大声で鳴く蛙の図体もさぞ大きかろうと身構えたが、池から出て来た奴が小さいので、“聞いただけで”一瞬うろたえた自分に腹を立てて蛙を踏みつぶしたという、おしゃべり以外に能のない者をも戒めた話である。
古今東西、シンボルとしての蛙もすこぶる多才である。水との関係で豊饒の化身、どろどろした混沌からの創造、派手な生殖行為からは好色、冷血動物の中では一番人間に近い格好もするので、進化の最高者、王冠をうあぶせられたり、王子の変身姿ともなる。
イソップ寓話の起源は古代ギリシアにさかのぼるが、わが国では早くも文禄2年(1593)天草のキリシタン学寮から、ローマ字綴りの口語訳本(伊曽保物語)が出版された。ところがそれより400年ばかり前の“鳥獣人物戯画”(国宝)でも兎と蛙、狐や猿などが見事な道化方を演じている。仏像になりすました大乗の蛙様に向ってお経を読む猿の僧正、その後ろで経本を開く兎と狐など。蛙と兎の角力も楽しい。長い両耳を口にくわえて、右足を外掛けにからめた大ガエル、その横では兎を投げとばして得意げの立蛙、はやしたてる仲間たち。干支のウサギも豊饒と多産のシンボル。亡国の少子化時代から、たくさんの孫たちに童話を語れる明るい世の中に、早くかえりたいものである。