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ガラスのコミュニティ

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年10月4日

ジャーナリスト 松本 克夫 (第2735号・平成22年10月4日)

わが近隣の中高年ソフトボールチームの大黒柱だったMさんが亡くなってから1年が経つ。元プロ野球選手だから、年は取っても、草野球ならぬ草ソフトでは技量抜群で、どのチームからも一目置かれていた。そのMさんが往年の甲子園球児だったこと、オールドファンなら常識のあの怪童といわれた浪商の尾崎行雄投手からフェンス直撃の長打を放ったこと、ほとんどのプロ球団から誘いがあったことなどは、後で奥さんから聞いた。

Mさんがサード、私がショートという三遊間コンビで20年近く一緒にやっていたのだから、現役選手時代の思い出話をたっぷり聞いていて当然のはずだが、プロ選手として大成できなかったことが心の傷として残っているだろうと思うと、根掘り葉掘り聞く気にはならなかった。Mさんも、素人にはまぶしすぎる球歴を得々と語るほど野暮ではなかった。

たまたま同じ新興住宅地に住み着いただけで、出身地も仕事も違う人間同士の付き合いには、暗黙の作法がある。適当な距離を保ち、無闇にプライバシーには立ち入らない。皆が知り合いの田舎と比べれば、随分と遠慮した関係で、まるでガラスのコミュニティなのだが、この程度の親密さでもないよりはいい。所在不明の高齢者が続出するところを見ると、世の中、コミュニティの成長より崩壊のベクトルの方がはるかに強そうだ。

道普請などで共に流す汗、共に酔い痴れる祭りばやし。町や村では当たり前の仲間と共にあるという実感が宝物のように思えてくる。都会では、昔より豊かになったものの、昔よりましな家族やコミュニティはついにつくれなかった。悲惨な事件の多くはそこから発生する。共にあることのうれしさを味わえなければ、まちづくりも自治も成り立たない。ガラスのコミュニティでも、壊れないように大事に育てないといけない。「巨人の長嶋さんの打球を受けたこともあるんですよ」といったMさんの控え目な物言いが思い出される。