九州大学大学院法学研究院教授 木佐 茂男(第2617号・平成19年10月8日)
「回り道の唄」というホームページがある。九州から信州の山間地に移り住んだ方が、日々、日本アルプスの周辺の山岳、農村などの風景とともにエッセイを載せておられる。私にとって癒しの場は「歌声広場」というコーナーである。やや懐かしい青春時代に流れたメロディーの数々は、精神的に疲れているときに、ほっとさせてくれる。
一方、真の癒しを求め小さな島に移り住む方たちも少なくない。山口県萩市の大島は、人口1,000人以下であるが、5年で33人が移住し、大半が漁師になり、固定給も20万円はあるという。さまざまの努力の成果なのだが、これらは個人的にあるいは地域的に恵まれているほうであろう。
「限界集落」という語も普遍化してきた。ある勉強会で知ったが、限界集落のほうが元気であり、その前段階にある地域がかえって手が付けられないケースもあるという。今後、農山漁村の自治体では、この種の地域を「消す」方針を採るか、「移住」によってどこかに新定住の場を作るかの苦しい選択を迫られることになるであろう。
ヨーロッパの山間地を見て思うのは行き届いた手入れの行われている美しい集落である。何が原因でここまで違ってくるのか、まだ十分な解答を見いだし得ない。今、日本の地域は、ますます荒廃が進んでいるように思われる。人々も、いわんや企業は、公共のためどころではない、自己自身の<存>を追うだけで精一杯である。
ちなみに、先の大島では、水洗化率は96.4%、高速インターネット・サービスも始まったという。現代における最低生活の基準を維持した地域づくりをすれば何かが集積し、心遣いにも余裕が出てくるのではないか。
率直に逆に言えば、日本という国は、東京を「不便」にしなければ、再生不可能ではないか。こうした発想は「回り道」と評価されるか、机上の空論といわれるのかわからないが、首都圏での動きを便利にする方策を止めない限り、東京集中、ミニ東京集中は今後とも避け難いであろう。