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自然の中に人があり、人の中に自然がある

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年5月28日

千葉市女性センター名誉館長・アナウンサー(元NHK) 加賀美 幸子
(第2601号・平成19年5月28日)

私たちの暮らしに「時候の挨拶」は欠かせない。特に手紙の書き出しは、書く方も読む側も意識する。気のきいた言葉を得たときの気持ちのよさは格別であり、双方とも嬉しく共有する。さりげなくも力の入る書き出しは、自然への私達の思いの現われでもある。人の集うところ、会議でも、講演でも、まず季節の言葉が冒頭の挨拶の中に語られ、おもむろに本題に入っていく。それがないと、何故か落ち着かない私達の暮らしである。

暮らしの中の言葉だけでなく、古典はじめ多くの文学作品にも、その心は反映され、人間の心情と自然の重なりは軸となって、脈脈と伝わっている。

先日、ロシアの翻訳者(『源氏物語』の翻訳者)タチアーナ・サカローバ・デリューシナさんがある研究誌でこう語っていた。「日本人は、手紙の冒頭も、自然や季節に自分を重ね、寄り添ったり中に入ったりして表現する。本来、自然は自然、人間は人間で、まったく違う世界なのだから、それは不思議でならない。ロシアでは、自然は常に外から見るもの。しかも、人間は自然より上に位置している。文学の方法も日本人のような細やかな自然描写はしない。だから『源氏物語』の翻訳をしていても、人間の感情を描いているのか自然の描写なのかすぐには判断できないので難しい(一部骨子)」という内容であった。勿論、タチアーナさんは、難しいけれど、それが他の国にはない魅力であるという。

『源氏物語』は光輝く一人の男性をめぐる多くの女性たちの恋のあり方、生き方の物語だが、どの巻も、登場人物の心に添って自然の様子が語られる。季節や天候、木々や花々…絵巻を見ても、紫の上が亡くなる巻「御法」の場面では、源氏の悲しみが、大きく描かれた秋草に重なる。文学でも日常での表現でも私たちは常に自然と結び合っている。自然の中に人があり、人の中に自然がある。その一体感はかけがえがない。自然を壊すことは、自分を壊すことかもしれない。